陰陽道の式神の作り方はなんにも知らない。
祖父は伊弉諾流の太夫だが何も習っていない。私が義務教育時代に亡くなった。
ただ子供のころ、念で生き物を作り外在化するようなことは遊び半分で自然としていた。
もちろん心の遊びの域を一歩も出ない。
まあ、妄想の酷いやつだが、意識しているのでその一点で妄想ではなく空想だ。
変な孤独な子供だったのでそんなことをしている暇があった。
ごく小さいころは鳥や動物などの図鑑を四六時中見ていた。
それで自然とカタカナは覚えた。
ポイントをひとつ言うなら「こころの中だけに限定して作らねばいい」ということだ。
勉強も全然熱心でもなく友人と遊びまわるでもないおよそ極つまらぬ子供だったのが幸い?した。
しまいには大きな大蛇まで作った。
残留思念という奴だろう。
だが、鬼でも大蛇でもどんなものでも想像次第だがそういうのは自分の内在の能力を超えるものではない。
またやってみるとわかるが人の空想力は全くもって無限などではない。たとえば無限という概念は未知なので「最高に強い式神」などというものを想像しても作ることはできない。内容が具体的に想像できない。それは概念ではなく体験がものをいうからだ。
蛇を見たことないのに想念でリアルに蛇をイメージできないのと同じだ。
それに裏打ちされないとただの脆弱な妄想の産物であって力は何もこもらない。
ただもともと自分の想念なので自由になる。当たりまえですが。
その意味では式神というより識神というべきか。
後に陰陽道の式神のことを知ったが大体似たようなものだと思った。
最近そのころがなつかしくなって小さな蛇を作ってみたが、梓霊狐が来て
「何のためにそのような様な稚拙な小細工をする?やめておけ。」と言われた。
念の蛇は目の前で梓が食べてしまった。
なんかかなり気に入らないようだった。
怒る理由もなんとなくわかる。
主を失った残留思念があればそれがいわゆる妖怪というものになるのだと思う。
たとえばそういうものを門に仕掛けたまま忘れてしまうといつまでも門のところにいる。
仕掛けた主が死んでしまったりすれば、それは強さに従い残留思念となって妖怪化する。
飼い犬を捨てたために野良犬化するのに似てる。
だとすればよくはないな。
幽霊とは違う。
幽霊はそのような創造物を作ることなく、ダイレクトに人の思念が残るものだ。
ただし多くの人の怨念のようなものが集まれば悪魔のようにもなる。
もう恨みの対象や理由も忘れて化け物になる。手ごわい「七人みさき」などがそれだ。
わたしが師から不成仏の霊を上げる「精霊供養」を習った時も
「七人みさきのようなものはきわめて難物だ。
いまのアンタのレベルで相手できない。」と言われた。