教義が異なるというだけで邪教呼ばわりすれば世界平和はホゴになる。
確かに仏教もイスラム教もヒンドゥーも違う。
キリスト教でもカソリックとプロテスタントでは違う。
だがそういう違いを盾として争えば世の中に平和はない。
私がいう邪教とは世の中に仇なす教えだ。
そこには必ずパターンがある。
つまり簡単にいえば社会の在り方を踏みにじっても教団の教えを最優先することだ。
普段においてはさほどではなくても何かのきっかけでこの考えは狂気に化す。
例えばサリンガスなど地下鉄に撒くことなど常識があれば冗談でもいわない。
そういう話が出ればドン引きして即座に退会するのが常識だ。
あるいは警察に駆け込む。
だが教団の教えで煮詰まってしまうと実行してしまう。
社会よりも教団のことをさらに大事なことと思うようになるからだ。
馬鹿げた教えに煮詰まるのはまず第一に外部との隔絶。
教団内部にしか人間関係がないような環境だ。これはまずい。
世俗を断って宗教に専念する宗教家のための修道院とか錬成道場は別だ。
そこまでいかなくても朝必ずこれだけお参りしなくちゃいけないから、それで会社におくれても仕方ない。
こっちの方が大事という考えも狂気の芽を含む。
さらにいえば輸血は悪だからと子供を見殺しにする。必要な医療を受けさせない。
これも邪教だ。
そもそもまともな頭では宗教行為より社会的責任の方が優先だ。
なんとなれば宗教行為はどんなに大事であれ個人的行為に過ぎないからだ。
ここの部分を取り違えている宗教は危険、すなわち邪教と言って憚らない。
だから当院では修行者にさえも家庭を顧みることを優先すべしと言っている。
そうでないと家族は犠牲者になる。
だから昔は出家の前には家を出た。だから出家なのだ。
戒律以前に修行に打ち込みながら家族を養えない現実があったからだと思う。