ある有名な聖天さまのお寺が競売に出ているらしい。
きっかけはご住職が寺に養護老人施設を作ろうとして失敗したらしい。残念だ。
養護老人施設をつくることは決して悪いことじゃない。
悪いどころか、老人が多くなってきている世の中のために実に素晴らしいことと言える。
だが聖天様はたとえそのような良いことであっても、今まで中心にしてきた聖天さまを措いて。別な柱に重きを置きかえるのをとても嫌うのだ。
それはなぜもへちまもない。実際そうだと言える。
肌で感じる。
故に続けていた聖天の祈願をまるきりやめれば何らかの障礙は必ず起きる。
聖天様からは裏切り者と思われるのだろう。
そういう点は容赦ない。
とくに首から上が動物で表現される方々は考えかたが人間とは違う。
これは天部の祈祷行者になるなら是非覚えておかねばならぬことだ。
内容は悪いことでなくても聖天様の祈祷や信仰のお世話から遠ざかろうとすれば激しい叱責を受けるのだ。
もう祈願として聖天様を拝むということはもうそういう定めなのだと知るべきだ。
先ごろ門下でも聖天祈願の道を行こうとするものがあり、以後、年期法要はいいが通夜、葬儀や忌明け法要など一切まかりならぬといいわたしたところだ。
覚悟がないなら絶対にしないがよいだろう。
絶対にだ。
ただし祈願せず、あるいは祈願としても年に数回行事としてやるだけとか、寺の鎮守や護法神として拝む限りには葬儀も別にきらわない。なにごともない。
元来、滅罪寺院でも大きな密教寺院には聖天尊が割合と祀られてあり、法務や葬儀に忙しい住職に代わり副住職や執事などが寺門興隆のために聖天供を修行したものだ。
また祈願は祈願で影響させずに同じようにやれるならほかになにごとかしても差しさわりはない。
私はそのように聞いてきたので葬儀は一切しない。
余計な利殖にも一切興味は持たないことにしている。
今一つ心に残るのは三重県ことたま神社の中西刀自の言葉。
聖天や荼吉尼天に使えるものは一生、そこから離れてはならないという教え。
中西師の師匠は荼吉尼天の行者だったが、最後には老後を考えてか、荼吉尼天より金もうけに心寄せたために術はまるきり効かなくなってしまい、いずこかへ消えていってしまったという。