弟子にあたる行者さんが肩の痛みで入院。無事を得て帰られるようで何よりです!
さてここでいう祈祷をした行者が(障碍を)受けるということはよく言うことです。
因縁を受けるともいう。
果たしてこの行者さんがいわゆる「受けた」のか否か
そこは別にしてよく言われること故、ちょっと考えてみたいと思う。
思うに受ける人には特徴がある。
心理学的に言えば「罪悪感」である。
贖罪的な宗教行為。
丁度、キリスト教でよくいうようにイエスが我々の犠牲になって十字架にかかったのだから、我々はイエス様に借りがあるという考えだ。
こういう考えの場合、罪自体は解消されない。
だから我々も犠牲にならないといけない。
それでわれとわが体に鞭を打ったり、聖痕と言って掌にくぎ打った穴ができるようない神秘現象を喜ぶ。
でも、これだと問題は解決されないでぐるぐる回るだけだ。
こういう考えが根底にあれば受けやすい。
否、受けないといけない。そうでないと信仰の「証」にならないから。
キリスト教の全てがそういう考えではないだろう。だが、私はこの考えが大嫌いだ。
行者は罪をかぶるのではなく。解決・解消の器にならないといけない。
祈祷者にとっては祈る行為は雑草を馬を食むのと同じだ。
馬が草をかむのに何か特別な思いを持つだろうか。
煩悩業障の雑草を余念なく食べる馬頭観音の三昧。
「噉喰三昧」
馬が草を食べるのに善でも悪でもない。
馬が草を食うのは自然なことだ。
「衆罪如霜露 慧日能消除 是故応至心 懺悔六情根」
罪業本来無しというところへ持っていかないと誰かが罰を受けねば収まらない。
祈祷ということもすべて如来の自然法爾の所作の一つなのだと思いなして、私自身は悲壮感もなく、さりとて良いことをしているという特別な感情もない。
そこに行けば受けるということもないのではないかと思ってそうしています。
神道でいえば罪汚れを潮の八潮の潮合に失うハヤサスライヒメでないといけない。
もう罪はどこにもない。
そうでないと忘れたころに芽を吹く。