祈願寺の住職とお話すると大概困った人というか、頭のおかしい信者さんに難渋する話を聞く。
当初、熱心に見えて急に縁を切る人。
どんなことでも自分の思うようにしてくれるのが当たり前だと思っている人。
いろんなパターンがある。
一番目の急に縁を切る人に当惑したくないなら、度を越して熱心すぎる人にはセーブかけるか拒否することだ。
そう言う人は期待したいだけなのだ。
いつも迷っている。そしてしばらくすると余所を見つけてまた期待すべく去っていく。
その過程にあるだけの人なのだ。熱心だからとこの人ぞと考えるのは禁物だ。
そういう自分の願いを求めてさまよう旅人は多い。
そう言う人は祈願を叶えるために入信せず、叶ったら入信したらいい。
「叶えばそれまでで信仰には何用もない」なら入信までしないでもらいたい。
迷惑だ。
一方、自分の思うようにしてくれないと気が済まない人は増長しすぎているのだと思う。
そのような人の中には何でもお金で要求を通す癖の人がいる。
これに乗っかるのは貪りの故で実に恥ずかしい。
これはおのが煩悩が人の姿をして現れたのだと思いなして筋違いな願いなど断固はねつけるのが良い。
「無理なお願いがあるんですけど断らないで・・・」などというのは聞く前から断る。
無理は無理だから無理なのだ。
欲につられては僧侶の本懐が失われる。
もっとひどいのは何も払えませんと宣言してああしろこうしろと要求だけする人。
無料で何でもさせようと初めからお金のないことのみ強調し相談してくる。
それで「仏様はお金は必要ないでしょ?」とかいう。
仏様は必要ないだろうが人間様はそうとばかりは言えまい。
本当にそう思うなら人に祈願させようとしないで自分で拝めばいいはず。
自分の欲望に人まで奉仕に狩出してほしくない。
前にも別な宗教の信徒だけど、おたくで供養だけしてほしい。でもお金はないですよ。という人がいた。
理由は自分の霊感で自分の信じる宗教だと霊が浮かばれないので先祖供養だけ仏教でしてくれという。
奇天烈でわけわからない。
なら、なぜそんな無力な宗教を信じているんだろうか?
仏教とはまるで世界観の違う宗教でそもそも先祖供養などないのだ。
したがって成仏などあるわけない。矛盾も甚だしい。
というよりこういう方はもはや何教の信者でもない。自分教だろう。自分で勝手にやればいい。
私にはわからない。
もちろん、無料でもお助けしなくてはいけない人はいると思います。
でも、それはこちらで判断します。
わけわからない話でただ泣きつかれてもできません。