善とは集団を維持存続させるための知恵の意志であってほかにはない。
モーゼの十戒にしてもそれ自体は神様が決めたものではなく、そうした知恵の淵源を神として認識して大切にしたのであろう。
人間でなくとも群れる動物にはそのためのルールがある。
これが善の原型である。
人間のように社会化すればそれはより複雑化する。
群れない動物は個体が生き残ることこそが集団の言う善に相当する。
いずれにしても存続し生き残ることが善の目的だ。
したがって神を崇めそれに尽くすことが直接の善ではない。
そこで止まれば意味はない。
そこを出ないなら単なる現実逃避だ。
至高の存在に接することで如何に衆生を利するかがあってはじめて善である。
善悪を裁くのはわが心であり、人間の心だ。
他のなにものでもない。誰も裁かない。
個人的もしくは一集団で訳の解らない神を祀り、それにいくら熱心な信仰を運んでも、それだけでは何も善にはなりえない。
そのような偽りの神を祀り、これにつかえることを善だとするのは迷信の最たるものだ。