祈願者はよく障礙を受けるということを言う。
どんな祈願でもう受けてしまうのかというとそうではないだろう。
もしそうなら体がいくつあっても足りない。
世界平和なんか祈ろうものなら大変なことになる。
そうではなく、受ける祈願というのはむしろ信者さんでも個人的に煮詰まった中で起きやすい。
つまりそこになんらかの煩悩を生じるからだろう。
貪瞋痴。
はじめから大きな奉納を当て込んだり、自分の好悪の感情専行で祈願したり、
出過ぎた肩入れもそうだ。いつの間にか祈願者の事情でhなく自分の都合が盛り込まれるのはダメだ。
もっと別な言い方でいえば無理があるということだ。
自然ではなく余計な思い入れをそこに起こすということである。
日頃からべたべたなあなあで信者に甘えすぎている人からそうなる。
だから祈願者の交わりはサラッとしていないといけない。
それでは慈悲深く見えないなどというのは余計なパーフォーマンスだ。
くだらないことこの上ない。
表面上、情が薄いくらいがいいかもしれない。
どう思われようとあるべきようにあることが大事だ。
日本人の好きな浪花節的人情などは人と人とに限ればありだろうが、祈願には通用しない。
極端なことを言うと祈りというものは自分の子が死にかかっていても他人様の子供が死にかかっていようとそこに神仏の慈悲に差異はないものと知らねばならない。
自分だけの思い入れなど何ひとつにも立たない。