「信仰生活を続けても娑婆世界にいると思いがけないマイナスなことはおこりますね。
私もなんども体験しています。それでも信仰は続けてきました。おかげで、そのマイナスが何らかの形でプラスになる妙味を数多く体験しました。マイナスなことが起こってる時は私でも嫌です。しかし、それに耐え、それを乗り越えた時、いろんな意味で良い方向に変化しているので、自分の悪業が浄化されたんだと感じています。」
羽田談
この大森先生のお言葉は大事です。
ゆえにこの理解のない修行者は修行させてはいけない。
高野山の故三井英光大徳も行者は時として思ってもいないような災難に見舞われるがそこで迷わぬことと語っておられる。
「やればなんかいいことあるだろう」くらいな軽い気持ちで入れば、ほぼ確実に起きてくる障礙にあらがえず逆に信仰を失います。
ひとが新な意識の領域に進もうとすれば。必ず障礙はある。
これを仏典では「天魔」の所為という。
そういう人の性質を見分けて行を授ける。あるいは授けないことも大事です。
逆にハッキリと「修行しても世俗的ないいことが起きるなどなにひとつないのだ」と知ってください。
自己を見つめるということ以外なにもない。