金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

間に合わない信仰

だいぶ昔の話だが他の信仰に心ひかれているのでそちらへ行きたいが「こちらはお付き合いで講員は続けさせていただきますので・・。」という人がいた。

「お付き合いで信仰していただく必要は全くないです。どうぞ、どうぞ。すっぱりやめてください。」

 

どうも余所でなにかいわれたらしい。

この人難病で手あたり次第人に聞いて良いというものをあさりまわっている。

それ色々手を付けているが腰はどれも座らない。

まあ、ここまでなるとそれも致し方ないがどれも信仰にならないだろうね。

うちにも苦し紛れでよくわからず世話人のそのまた紹介で入ってきた。

辞めていいと行ったら大喜びだったが翌週にすぐ亡くなった。

まあ、うちにいてもいずれは亡くなったとは思うけどね。

こういう人は困ったときのニワカ信心だ。そういう信仰は役に立たない。

ニワカに戦になって日頃まったく手にもせぬ武器を取りこっちの刀がいいがものか、あっちの刀がいいものか、はたまた槍がいいのか、さては「なぎなたか」というようなもんだ。

自分に信仰がないから基準もないのだ。

おいしいこと聞くからいくだけ。

そんなもんだから。「こちらの刀こそ」といえばすぐそちらへいく、

 

見ているとこういう人ってひとたび良くなっても結果は同じことだ。

だからおやめになっても「せっかくのご縁がもったいないなあ・・・」とは全然思わない。むしろ個人的には本当の気持ちが見えている分、やめてもらってこちらも清々する。

 

結局、この方もどれも手が合わさらなかったということではないだろうか。

私は付き合いでする信仰は嫌いだ。

「お近づきということで、この際、私も講員に」と愚にもつかぬことを言うヤツはとりわけ大嫌いだ。

 

先日も子供さんを失った方が「生前、子供の件で世話になったので私どもも暮れにそちらに用事があるのでご挨拶によります。」という。

生前少しかかわったが世話になったというほどの世話は何もしていない。

「いやいや、一期一会ですから。そのようなご心配はもう無用にしてください。」といっておいた。

諸事放念が第一。つまらない無用の心をかけねば心の青空に一片の雲もなかろう。