縁というと自分と周囲をつなぐものと思うが、それは世間的な解釈だ。
仏教の言う縁とは実はそうではなく、自分というものも縁によってこそ存在しているのだ。
網の目は一つ取り出せない。
周囲の意図が交差してできていおるのが網の目だもの。
そういうものだ。
縁を大事にするとは自分を大事にすること。
自分を大事にすることは縁を大事にすることだ。
般若転読文に「諸法皆是因縁生 因縁生故無自性 無自性故無去来 無去来故畢竟空
畢竟空故 是名般若波羅蜜多」という。
ほかに自分などない。
縁が去来するのみ。
修験道にてはこの縁こそを荒神という。
縁を大事にする意味で聖天供も十一面供もすべて荒神真言を加えています。