生駒聖天の開山・聖天の大行者、湛海さんは友人の超一流の真言僧である浄厳さんから事あるごとに「聖天さんなんか拝んでいると死んだあと、毘奈夜伽(常随魔)の部類に堕するからやめなさいよ」といわれた。
浄厳さんは聖天さん大ッ嫌い。
弘法大師の将来した聖教にもあるのになぜかくも嫌うのかは不思議。
まあ、仏蓮金三部の仏と天部はわけて考える。なかでも鬼神はとりわけ別だという主義なんでしょう。
あまりいうのでそのせいか、晩年は全部弟子に任せて聖天さんはやめてしまった。
湛海さんも元々はお不動様が大好き。不動の部類になることはあっても毘奈夜伽之部類になるのは嫌だったのかもしれない。
ただし、これは色々考え合わすとある程度理がある話だと思う。
霊狐の言うところでは霊界に行った行者さんは大体生前仕えた神仏の近くにいるようだ。
近くというが霊界に行っても次元は違うから目の前に本尊が実像として拝めるとかはほとんどのレベルではありえない。
皆、人は死んだら、こちらから見てあっちの世界は一緒と思うようだが千差万別、この世も千差万別な世界の一つに過ぎない。
丁度、陸の上から海の中は分からないから一緒に思うようだが、海の深度によって住んでいる生き物も景色もまるで違うようなものだ。
空の星も一緒に見えるが太陽系もあれば別銀河の星もある。皆一緒に見えるから同じだと思うだけだ。
それはこのうつし世も砂粒の数のような無数の世界のなかのひとつであり、同じことだが、眷属の中には同じ次元に住む者もあるので交流や行き来はあるようだ。
本尊の身元にあるとは限らない。むしろほとんどないと思う。
不動明王なら不動明王を頂点とした無数の世界があるのだ。それを部類という。
私の師匠は聖天信仰はもちながらも観音の菩薩信仰、そして阿弥陀様の浄土信仰へと変わっていくのが大事だとしていた。
そういうのがないと聖天行者は極楽でなく鶏羅山中に生まれるのかもしれない。
行者はとかく眼の前の施主の課題に終始す「下化衆生」の毎日を繰り返すがそれのみではいけないのだろう。
やはり「上求菩提」を忘れてはいけないと思い返す。
まあ、極楽も九品の浄刹というが九つどころか実際は無数のレベルがあるようだ。