人の資質は行法に入る以前に整えなくてはいけない。
人であれば誰しも欠点はあるが、「貪 瞋 痴」の激しいままではだめである。
それらは行法して治るものではない。
中にはかなり熱心で火の出るような熱心な行法をするがこうした難は野放しのままである。
まず「貪り」、行法に望む根底になんらかの野心を持つ者。
行法はまず第一目的として上求菩提 下化衆生のためにこそある。
息災、増益、敬愛、調伏の行法は下化衆生のてだてである。
自分自身は護法神や御仏の加護でこれらが整い、おのずから安寧であるように修行するのが原則だ。
たとえば自らの栄達を祈るため密教を学ぶなどと言うのはピントがずれている。
興教大師覚鑁ははじめ栄達を望んで僧の道に入ったと告白されているが、そのような告白をあえてするのは元来の質が善だからである。
次に「瞋り」である。
善良であっても瞬間湯沸かし器のような人間に法を授けるのは危険だ。
つねに活火山のような人間だ。
あるレベルに達すれば即大爆発する。
釈尊の金言に言うように須弥山のような功徳も一朝にしてて失う。
あまつさえ同門や師僧にさえも、暴言などはいて後で大いに後悔しても遅い。
徳を傷つけ、法を傷つけるものである。
最後は「愚痴」である。
痴はいわゆる頭が悪いことではない。
慢心強く無反省な人間のことである。
譬え高等教育を受けていても一向人の言うことはきかず、同じ過ちを繰り返す。
それは増上慢ゆえであろう。
教えを受ける身でありながら、人いを侮り、蘊蓄を垂れ、持論を臆面もなく展開し主張してやまない。謙虚さの一片もない。
かかる人に指導は一切無用である。
まことに恥ずかしながらそうした人間にも法を授け養成してきた憶えがあるが、…何とかなるケースも稀にあるが大半はやめていくか、やめてもらうかである。
思うに最後の「愚痴」が最も処しがたい。
はじめから自信満々で私は他の人間とは違います。自分はできます。みたいなものはほとんど「痴」のものである。
痴は時にその発音を同じく数する「知」の顔でやってくる。
今ではこれらを言動から悟り、その難を去るようにしている。
まあ、それも数々失敗あってのことで全くもって威張れるようなものではないが。