生霊が来て退散させてほしい…という話は時々ありますが、なぜ生霊なのかというと、相手のことが頭に浮かぶからなのだと思います。
誰だかわからないけど生霊なんだ!という訴えはあまり来ない。
だがむしろ、本当を言えばそっちの方が真実の霊障に近い。
心身の不調やトラブル続きを「あの人の生霊」と特定してしまうのは、過去に何かしらショックなトラブルがあったからなんですね。そうでないなら「誰それの生霊」とは言わない筈。
その思いが一種の「恐怖」として残っているとアンカーになる。
逆にそれが全くなければ相手が実際にいかに恨んでいても生霊は来られません。
要は誘因子は自分に有るのです。相手の念とかじゃない。
戦国武将などはいっぱい人を殺していまから、道理から言うなら敵国からかなり恨まれているはずですが、古来生霊にやられた人の話はない。
恐怖がないからです。やらなければやられる状態では殺人さえも罪悪感はわきにくい。
例外的な話をすれば関ケ原の合戦で西軍を裏切った小早川秀明はそののち年数を得ずして若くして狂い死んだと言います。
これを関ヶ原合戦で彼が裏切った西軍諸将の恨みと言いますが、生霊でも死霊でもなく罪悪感でしょう。
恨みの念が人を呪い殺せるなら東軍の総帥である徳川家康を襲うはず。
小早川など呪い殺しても豊臣が返り咲きはしないもの。
生霊は相手の霊体が抜け出て襲ってくるのでもない。念の具象化です。
それを自分がヴィジョン化しなければ生霊はあってもないも同じといっていい。
ただ体のコンディションが崩れている時にはもろにその影響を受けることもある。
弱気になるから。
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だから本当はその恐怖や罪悪感がなければ生霊は襲いようがない。
不義理や悪いことをしたというなら謝るほかないでしょう。
逆恨みは誤解が解けないなら放っておくほかない。
本当は御祈祷などもいらない。
恐怖しなけりゃいいのだから。
生霊退散のお札というのは怖いからこそ祀るんでしょう。
だから怖いと思うのでないならつくってもらおうとは思わない筈。
一番いいのは生霊は自分で追い払うことです。
故に生霊を感じたら以下のように声にだして言いましょう。
「ここはあなたの来るところではない。ここは私の場だ。
速やかに退去せよ。あなたは何もできない。私は命令する。二度と来てはいけない。」
体に感じるなら「この体は私のものだ。お前のものではない。お前はしてはいけないことをしいている。速やかに元の場所に去れ」と言ってください。
忘れそうなら書いて貼っておいてもいい。
当院には飯縄結界守りというのがありますが、あれは飯縄様が判断して悪いものから守ってくれるのです。
あなたの判断では動きません。
原因が何であれ飯縄様の考えで取り除くのです。追及無用。
昔の霊を避ける方法はこちらからピンポイント攻撃する物は一つもない
それが昔の人の知恵です
お気楽極楽なものです。