金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

敢えて悲願を捨ててみる

※初めて読む方は一番下の「新しい聖天信仰」の記事からまず始めにお読みください

聖天信仰は普通ではかないそうにない難しいことを祈る神様としてよく知られています。
そこでみんなこれはという願を掛けますがそれでも結果的に叶わない祈りはあります。
叶わない祈りには三種類あります。

1、本当は望んでいない祈り。
こうしたいと思っているけどためらいがある・・・というものです。
たとえば結婚はしたいけど本当は色々な事情でうまくやっていけないとひそかに思っている場合、その祈りには深い部分でブレーキがかかっていますから届きません。自分で頼んでは直ぐにキャンセルを掛けています。
それらは概ね、経験的な罪悪感や無力感によるものです。
このケースは心理療法で制御を外すことで結果が変わるパターンです。

2、次に本気ではない非現実的な祈りは叶いません。
何でも叶うなら・・・ということで平均的なサラリーだけで生活しているのにいきなり大富豪になりたいとか、サッカーをしたことも無いのにプロのサッカー選手になりたいとか、今までなんの関わりも準備していない場合の祈りは到底本気の祈りではありません。勿論、大富豪もサッカー選手もなりたいと祈っていいのですが段階を追わない祈りはダメです。
そこまで極端でなくても働いてもいないのにお金が儲かるよう祈るのは無理です。遊んでいて宝くじや賭け事が当たる祈りなどはまず叶いません。
でも病気あるいは職場が無くて働きたくても働けないのだが生活を何とかしたいというのは切実な祈りですのでこれには該当しません。
祈りには準備も大事です。準備しないのは本気じゃないからです。

3、以上には該当しないのだが叶わない祈り。
これは過去世の因縁というものです。最近のスピリチュアリズムの技法の中には因果さえもすべて超えるというような事を提唱しているものもありますが、因果はすなわち過去の原因の結果ですのでタイムマシンにでも乗らない限り変わりません。悟りの世界は別にして俗世は不昧因果(因果はまぬかれない)です。ただし、結果を修正したりすることは可能です。
でもこれは因縁の原因となる出来事はなくなるとか除かれるわけじゃない。
この手の祈りが実は悲願になっている場合がありますが、果たして自分が望んでいるどれが過去世でブロックされている祈りなのかは本人が認識する以外ないのです。前世療法という手がありますがそれですべてが処理できるとは言えません。
わかりやすくいえば、何でも叶うという聖天様にももうずっと長年祈っているし、他にもいろいろ試したけど全然ダメという祈りはいったん潔く捨てることです。
荒療治ですが実はこれを捨てればあなたに別な宇宙観が開け、別な人間に成長できる近道なのです。
崖が崩れて行き止まりになっている道の前で何トンもある大きな岩を素手で押していても埒は空きません。迂回することです。
それで心の流れは変わります。
そうすることによって意外な目的地に着けるかもしれません。
聖天信仰というのはそういう悲願を叶えるのではないのか?と思っている人には不思議でしょうが、祈りはその内容が難しい難しくないにかかわらず何が根にあるかで叶うか叶わないが変わります。
見た目の難しさは関係ないのです。
悲願を敢えて捨てることでほかがすべてスムーズにいくのなら考えてみてもいいかもしれません。
また、悲願を捨てても、そこに叶う要素があればそれも結果的には迂回して叶うことでしょう。