金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

多情仏心

昔知り合いの禅尼がはなしてくれたことに、ある高僧が来客を受けての話。「ご老師位になると座禅していて夏の暑さ、冬の寒さなんて感じないでしょう?」
すると件の老師「・・・・・夏の暑さや冬の寒さも判らないでどうして悟りを目指せましょうか?」と返されたそうです。
仏道者は何にも動揺しないのがホンモノと思い込んでいるのですね。
じゃあ岩や石のようになるのが理想的なのでしょうか。
たしかにうろたえたり、ものごとに動揺してしまってすべきことができない。これは困ります。
でもそうでないとき仏道者はおおらかで情けの厚いものでないといけません。
情けがあつければ泣きもすれば時には怒りもするでしょう。
能面の様であるわけがありません。
若いころに、不倫をしている人が占いの相談にこられ、私は身の程もわきまえず若気の至りで、その人をこっぴどく叱った覚えがあります。
相手もまさかそんなことを言われるとは思わなかったのでショックだったのでしょう。
今ではデパートのコーナー占いでも、チェックボードに内々には「不倫」という項目があるらしい。そんなの一々注意する占い師はあり得ません。
その人もそういう相談の場で「あんたはしてはならぬことをしている!」と正面から言われたことはなかったようです。
そして本当は占いなんかではそういうこと言わないのが原則です。
でもこちらは占い師じゃない仏教を背負っていますからいうべきことはいいいます。
いまでも私の占いは仏教をぬきではしません。
以前私の弟子に「おたくの密教占星術やりたいんだけど、宗教色抜きでやりたいので指導してほしい。」というような打診があったそうです。
密教占星術なのにそこから密教抜いたらどうなる?弟子も当然断った。そういう方とは我々は目的が違います。
あくまで布教の手段としか考えておりません。
「携帯のアプリでやりたい。ビックマネーになるかも」という打診もあったけどこれも同じ理由でお断りしております。
さて、その方かなり不機嫌で帰られましたが、その後ある人にこの体験を語り「今まで本気で怒ってくれる人がいなかった。あそこへ相談に行くといいかも・・・。」と語っていたそうです。
今では怒ることはしませんがその路線は変えていません。
でも仏教者ってもっと静かな少なくとも感情的ではないイメージですよね。
多くの人はその辺を少々何か勘違いしています。確かに仏様菩薩様は寂静相といって落ち着いた静かなお顔です。
これは諦観によって因果の理を知る御顔だとされています。
だからこの世の生老病死の推移は諦観されている。しかし人生にもまた
四季がある。
そこで春には若葉を楽しみ、夏には青々と茂る木陰に遊ぶ。
はたまた、秋には散り逝く落ち葉を、冬には古木の屹立たるを楽しむことができるのが本当であって、四六時中「人は生まれれば、しまいに老いて病んで死ぬのが当たり前。人生の移り変わりなどは私には関係ない」という風なのは違うと思うのです。
これはどちらかというと阿羅漢の心です。
彼らは外界に心せば必ず輪廻するので何物にも心動かさないのが理想なのです。
即ち存在の完全消滅こそが目的なのです。でもこれってさみしくありませんか。
日本には純然たる羅漢信仰は本来ない。でも羅漢さんのお像はあります。
五百羅漢なんているのも良く言う。
日本で出来た羅漢像は全然寂静相ではない。色々な表情をしています。
羅漢さんだって本当は心のなかは色々複雑というために作ってあるかのようです。多分そういうことで作ったのだと思う。
大乗仏教では羅漢が最も否定される存在。でも法華経では一度は増上慢から釈尊の本を去って行った500人の弟子が授記を得ます。
此れが500羅漢でしょうね。
羅漢さんと違って大乗の心はその輪廻のなかにこそ悟りを見出す在り方です。
法華経では何度でも仏が出現する。そして衆生の為に何度でも法華経を説く。
だから仏は入滅なんてしないのだという。ゴールに入ったらおしまいじゃないのが大乗仏教
「多情仏心」という言葉がある。世間的にはもっぱら情の濃い人は移り気だが慈悲もあるという意味でつかわれますが、もともとは仏の心は極めて情けあついものであるという意味です。
人生にはとりすまして「少しも騒がず」というのが必要な情を抑えるべき場面もありましょうが常にそうあるべきだというのは大きな間違いです。
密教では激しい怒りの仏もあれば、歯をむいて笑っている仏もいます。
釈尊も亡くなられた弟子を忍んで大いに嘆かれたといいます。