金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

顔が見えないのだから

顔が見えないやり取りになれているのが現代の日本人。
ネットだのメールだのでほしいものが簡単に届くから。
まあ、お仕事や交渉事はちゃんと履歴が残るからいいですね。そういうことになりにくいのはいい点です。
そういう利点はある。
古くは電話も同じ。
顔が見えないという点だけではね。

あらたに本を出しますと必ず「質問」という電話を頂くことが多いです。
最近はブログを読んでからかけてくださるのでそう言う人は全然といっていいくらいいませんが、以前はどこの誰ともいわないで一方的に質問を展開する人も何人かいた。
そういうのは若い人じゃなくてほとんどが高年齢と思しき人ですね。
こういう人は電話の利点はどこの誰とかわからない点だと思っているんだろうね。
だから名前も住所も言わなくて当たり前なんでしょうね。
もっと驚くのは本買ったら質問はいくらでもオーケーだと思っているんですね。「貴様にはこたえる義務があるのだ!」てなもんです。
確かに本よんでわからない表現とかがあれば私めの責任でございますので聞いて頂いてしかるべきでしょう。
いくらでもお答え申し上げますです。

でも全然関係ないことまで聞いてくる。
それでもそれも答えるのが当たり前だという風なのはアンタどうよ?
「お客であるぞ。頭が高いッ!」と思っているのでしょうね。
でも本代払って本買えばその対価はもう払われているんですよ。本に自由相談券でもつけてあったかしら?というような人もいる。

とはいえ一応、名前や県名をきちんと言う人には応対はしています。で、ここからは違うなというところではっきり「それは来て相談してもらう事柄です」と申し上げるようにしています。
そういう切れ目わかんない人もいるでしょうからね

でも名前も言わない。県名も言わない。
実際は私だってそんなのどうでもいいちゃいい。聞いてもどうせ忘れるけど、人と人の礼儀じゃないかと思うんです。
例えば「おはよう」のあいさつはいわれなくても困らないけど返さないやつとはしゃべりたくないね。そういうもんです。

本来は教えを乞うならあんたがここへ来いというのが仏教のルールです。
いや、仏教どころか物を教えてくれというならなんでもそうですよ。
行っても教えてくれないことだってもう当然想定内。
だから聞けば真剣になって身に入る。教えて当たり前なんて言えば「コイツ馬鹿か」と思われる。
私はすべてそういう風にして習いました。
今でも伝統の世界はそうです。物売りでもない限りはね。

そういう世界では情報は売り物じゃなく、礼禄をささげて頂くものでした。
つまり易経にある「童蒙よりはじむべし。」で尋ねる方の真摯さが大事です。
礼禄はいらなくても教えを尋ねる態度は同じ事です。

だからといって別に威張ろうなんて思いませんけど、どこのどなたともわからぬ方から上から目線で「おい、お前ここはどうなっているのだ?」なんてのは相手してられないですね。
しかも名前や住所を聞いても応えず「そんなことはどうでもいい!」などというおエライ方の電話は今も昔も即座にタタキ切らせていただいておりますので悪しからず。