金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

期待と信頼とは違います

最近、難しいお話がありました。
どうもお金のことでだまされたらしいというのですが、そこに法的問題はないのでと警察も法律家も取り合わないので少しでもお金が戻れば・・・というお話でした。大変ですね。
むつかしい世の中でよくわからないでお金を出してしまうことはありがちですから、よくよく用心しないといけません。
こういうことは多いんだと思う。
何とかしてくれとのご依頼でしたがお電話でよくわかりませんでしたし「法律家や警察もそれを取り合わないとなるとどういう解決があり得ます?」と逆にお尋ねしましたが…まあ頼んで少しでも返してもらうというほか位しかないということでした。
でも、もしこの方のお話のように相手が本当に騙すつもりでしたなら頼んだくらいじゃ到底返さないでしょう。
世の中のトラブルは弁護士まで行かなくても消費者センターに相談するとか行政の無料相談もあります。
そういうところも話してみるのも大事です。警察や法律家は不親切なのではなく建前としてはっきり法に触れた問題でないと動けないですから。

だからこそ御祈祷でなんとかということなんでしょうが、御祈祷とはいってもできることは使咒法経にある「順世の法」つまり世の中の理法に合った形でのご利益ということになります。
世の中の理法を超えてというと基本的に無理ですということになります。
つまり理に合わないと駄目。
桜に梅を咲かすようなことはできません。
交渉勝利と言って頼みごとを叶える祈祷はあるけど、もともとだますような者がそのような交渉にとり合うわけはありません。

こういう祈願は二つ返事で「祈祷しましょう!」と言って、期待だけ膨らみうまくいかないと、結局またまた騙された感が強くなる可能性もあります。
第一それじゃ行者としての誠意がないですね。
はじめから無理だと思いながら祈祷するのですから。
これは病気も同じ。危ない病人ほど大きい祈願が必要ですが、それで助からないと無駄だった。甚だしくはいいように儲けられたとか騙されたとすら思うかもしれません。

だからこそ込み入ったことやむつかしい祈祷は講員になっていて付き合いのある人以外はしないですよというのはそれです。
信頼なくして大きなご祈祷や難しい祈祷はできません。
その方には「お力になれません」とお断り申し上げました。
「先生が頼みの綱でしたのに…」と言われ私もまことに申し訳ない限りですが・・・。
でも仕方ないのです。
期待と信頼とは違います。似て全く非なるものです。
期待はおおむね結果がよくないと裏切られたという考えになります。
はなはだしきは「騙された!」とまで思うかも。
信頼はたとえ首尾がよくなくても「お世話になりましたが・・・残念ながら駄目でした。」という共感があります。
そこは大きく違います。
お互い、急に信頼はできない筈です。
だからこそ日頃の信仰を運ぶということが必要なんです。
頼みごとがあるからということでその時からにわか信者になるんじゃ遅いんですね。
困った時の神頼みは駄目です。