金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

対等性と敬意

だいぶ前ですが・・・
「羽田さんですか?私よくブログ見てるんだけどおもしろいですね。密教とか勉強したいんで、ぜひ羽田さんお弟子になりたいんです!」っていう女性から電話をいただきました。

最近スピリチュアルなワークショップなどに参りますと。講師の先生も呼び方はたいてい「○○さん」ですね。
先生なんて言わない方が多いですね。
ある方に聞けば対等性ということでそうしているんだそうです。
まあそれはそれでよし。

いつも私だけ講師を〇〇先生なんて呼んで浮いてしまいますけど。
でも、これは私のスタイルです。
ものをおそわる人はすべて先生です。年齢も性別も人種ももちろん関係なし。人じゃなくても犬でも猫でも狐狸妖怪の類でも先生です。
空気読めない・・・ですか?
違います。
そういう空気なんかあえて読まないんです。
私は。
納得しないまま、人のやり方に合わせる気は毛頭ありません。
浮いていて結構なんです。
自分勝手な人間ですので、ギリギリ許される線までは自分のやり方を押し通します。
それからそういうセミナーではニックネームを自分でつけたりするけど、私はいつでもどこでも羽田です。
羽田以外のものになりたいとかは思いませんね。
羽田は羽田でしかない。良くも悪くも。
だからそんなのつけたくないんです。
まあ、けんかするほどのことでもないからつけろといえばつけてはいるけどそんなことするの全然意味ないと思っています。ホントは。
自分から遊離したい人にはいいかもね。

弟子にならなくとも、私はモノを教わるのにどんな方にでも○○さん呼ばわりはしたことがありません。必ず「〇〇先生」です。
まして押しつけがましく教えてやるではなく、自分のほうが頼んで教えを乞うなら「先生」は当たり前です。
「でもみんな平等じゃないの?」ってそういう方もいるんですよね。
ご立派です。で、何聞こうが○○さん、ここ教えて…で済ましているのかね。
そういう方は。
そういう人から質問のお電話もあります。名前すら言わないでなんでも聞いてくる。ほっとけば一時間でもしゃべる。
「時間予約してきてください。一時間一万円ですよ」というともう来ません。
別にこなくていいんです。そんなものなら。
来ない方がせいせいするので。
私に言わせればそれじゃ不平等なんですね。
だって大事なことを教えてくれる人にはなにかしらを払ってこそ対等なのです。敬意は最低限の礼儀です。それでまず態度だけはやっと対等です。
もともとが対等だからこそ教わるには礼儀を尽くすのです。
教わるのは言うだけだから、ただでしょうか?
じゃあ大学の授業もタダですか?
落語もタダ?
コンサートで歌を聴くのもタダ?
口開くだけだから。
伝統の世界では云々とかじゃなく、まず敬意あってこそで、それがほんとじゃないんでしょうか?
もっとすごいのはいきなり「羽田さんとお友達になりたいんです!」という電話ももらいました。
「・・・なんでです?」って言ったら「エ・・・?と」と言葉に詰まった。
「わたし、先生に仏教や宿曜のこと色々聞きたいんです!」ときた。
私が仏教や宿曜のことはなさなきゃいけないのは信者や生徒です。
お友達じゃないですよ・・・。
私は友人であっても、私からものを習うなら教室に生徒で来てもらうし、仏法を習いたいなら信者になってもらいます。それが当たり前。もちろん自分が逆の立場でもそうします。
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりはおおげさとしても学ぶとはそういうことでしょ。好かなくとも道を学ぶ世界ではそうです。
だから「○○さん弟子にして・・・」といわれても別に腹は立てませんけどね。「ああ、道の世界とは遠い世界の人だなあ・・・」と思うだけ。
色々ある中でお前のところをあえて選んでやったということなのかね。
別に折れてまでうちを選んで頂きたくないですね。
弟子はお客様かしら。
最近は学校でもなんでも習う方をお客様扱いするからそのへんが一緒くたでわからないんだろうね。

まあ、遊びや趣味ならそれでもいいやね。
所詮がその程度でしかないのでしょう。

だけど「道」と附くものの世界ではその「ものいい」はお話にはなりません。
とりわけ密教では法は師と同じ価値です。
だから「習えるなら、とりあえずだれでもいいや」なんてありえないんです。

どうか、よそをお当たり下さい。