金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

少しだけ強く生きられる考え方

人間ってとかくなんでも人と比べるけど・・・本当は何も比べられないんですね。
人は人の因縁で動いていますし、自分は自分の因縁ですから。
その因縁こそが本当は自分そのものです。
自分の、因縁じゃないんです。持ち物じゃない。自分そのもの。
だから人をうらやむことは意味ない。
人より幸運だから、めぐまれているから、と言って威張ることも、申し訳なく思うこともいりません。
自分と因縁は同じもの。仏教はそう教えています。
諸法無我というものがそれ。ぶれない中枢があるんじゃなくて因縁をくくったものがおのれです。だから良くも悪くも因縁こそが自分です。
全部因縁でできている時間的存在。「因縁生起」のことを「空」というわけです。

諸法皆此因縁生 因縁生故無自性
無自性故 無去来 無去来故 畢竟空
畢竟空故無所得 無所得故 是名般若波羅密多

大般若理趣分の転読分は般若心経よりわかりやすいですね。

もし今の状態がないなら自分もいないんだね。どこにも。
だから大金持ちの家庭に生まれていたらとか、もっと美人に生まれていたらとか…思うのは勝手ですが意味なんかないんだと思う。
もしもこうだったらなんていうのは意味ない。
其れ自分じゃありません。
でも運命論じゃないから、自分でそのように因縁を変えていくことは可能なんですね。
それを提唱するのが仏教。
インドにはカーストというのがある。いいことじゃないけど、インドでは人は自分のカースト内で生きている。そんな観念があるそうなのです。
だから我々が思うような感じでは不満がない。
「みんな同じでしょ?」というのがないから。
ここのところは認めたくないだろうけど鋭く人生を見ればその通りです。
誰もがオリジナルの人生しかない。
身分だの貴賤上下だのを言うのはいけませんけど、自分には自分の枠があるというインドの思想がそこにあるのかも・・・・。
単に前時代的な社会的階級制度だと一蹴できない根強いインドの哲学的思想が根底にある。

しかし自分がどんな因縁なのかは誰もわかりません。
だから、どんなひどいことになっても不思議じゃないのが人生なのです。
ひどいことになると初めてそれがわかる。
いやでもわかる。
いい年寄りになってから台風の日に河で流されたり、地震で押しつぶされるとかそんな人生を誰が考えただろう。一分くらい前まではみんな幸せで笑っていたのにね。
子供なのに癌や奇病になってしまったり、先天的障害で長く生きられない子供さんもいますよね。
将来有望で希望に満ちた若者が。突如、頭のいかれた凶悪な犯罪者に襲われて殺されてしまうこともある。
何度も何度もこれでもかと人に裏切られ、絶望と孤独にさいなまれながら生きていく人もいる。
なんて酷いことと私も思うけど・・・でもそういうことあるんですね。
そうなれば大概は皆さんは神も仏もないと思うだろうけど、・・・神や仏があってもそういうこともある。
高岳親王様は弘法大師のお弟子。インドに行こうとした。生きて帰っていれば日本最初の入竺沙門だけどマレー半島でトラにかまれて亡くなったという。
残念ですね。この人帰ってきてたら日本の仏教はまた大きく変わっていたかもね。
いいことしようとしたのになぜ?仏様は守ってくれないの?
弘法大師さえもに入唐船が難破してずっと南に流されたり、鑑真和上なんかは戒を伝えるために日本に来ようとしてついに失明された。
それでもこういう人達には多分、残念だという思いはあっても恨み言はないでしょう。
どんな人生でも自分の人生。
それじゃなきゃそんな大変なことしようとしない。

神や仏はね・・・呼ばないと答えない。
呼べば100パーセント助かる訳でもない。
私も難しい病気などで「御祈祷すれば絶対に助かりますか?」とつめよられるけど、正直わからないよね。1プラス1は2なんて言うのとは違うから。絶対助からないなら詐欺だインチキだというなら御祈祷は絶対にお断りです。
だから神仏も含めて絶対なんてない。
この世の中が相対的に存在しているのに一人絶対を振り回すものんてないんです。
「因縁生起」ですから。
ましてや無神論振りかざしてそんなものないんだと思えばないのと同じです。
でもね、貴方の人生がどんなにひどくても神や仏にまったく責任なんかないんです。
「比べられないんだな・・・誰とも 」と思えば少しだけ強く生きられる。

そうじゃないですか?
私はそんな気がします。