人は知りたい動物だ。
だから困った事態なら解決以前にどうしてと思うのだろう。
因縁がどうこうとかいうのもそうだ。
例えば生まれつき身体が不調だとする。
なぜ?と言うのが因果論だ。
医者でもどうにもならない。
霊能者に聞いたら自分は過去世で合戦で人を何人も切って殺している。
普通はそれで供養だの滅罪行だの何だのと言う話になる。
だがここでさらに考えれば。ではなぜ切られた人は切られたのか?ということだ。
それは切られる因縁があるからだということになる。
そうなると切った人間ばかりが悪いわけではないということにもなるかもしれない。
戦場できられる方が身体の不具合より重い罪が過去にあるという考えも出てくる。
こうなると延々犯人探しが終わらない。
霊能者に診てもらってそれが嘘でないにしてもせいぜい数十年から数百年前ほどの因縁探しで終わる。そこで終われば一種の断見だ。
だから大乗ではスットンと原初の根本無明までさかのぼり懺悔する。
原初と言ったってここが原初などと言うものはない。
しかも大乗の考え方はそういう過去志向と全く逆だ。
たとえば仏伝物語では提婆達多は釈尊の大怨敵で釈尊を何度も殺そうとしてしまいに地割れに呑まれて行きながら地獄に堕ちたという。
しかし法華経では実はこの提婆達多は釈尊の師であり、現世には様々な苦難を与えて釈尊を鍛えたんだという。
だから大恩人だという。
ついに天王如来と言う仏にさえなる。
でもそれも、もし釈尊が挫折していれば提婆達多はただの悪人だ。
会社で仕事のチェックの厳しい上司に当たって、耐えられないでパワハラだ!と言ってやめればその相手はただのパワハラ上司だ。自分も失業するだけだ恨みは果てしない。
だがそこから何かをくみ取って学んで大きく飛躍出来たら、その人の人生でパワハラ上司はただのパワハラ上司ではなく厳しい人生の先達として意味を持つだろう。
大乗の考え方はそういう自分の前進にそれが何をもたらすかと言うテーマを持った因果論なので俯瞰的な論理科学でも何でもない。
難しそうに見えて究極は生きるための知恵であり、理論智でないのだ。
純粋に理論科学だと思ってまともに取っ組めばバカを見る。
仏教自体は理論科学などとはひとことも言ってはいない。
不可解を不可解としておいておけない現代人の思い込みでしかない。
だから現世で頑張って前向きに生きて幸せになること。満足して生きることがしいては怨親平等にすべての周囲の人を救うことになる。
だから本当に罪障消滅したいなら無条件にhappyな人間になることだ。
いわば終わり良ければすべてよし。そういう考えなのだ。