金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

うけるということ

加持祈祷とかうらないやっていると「受ける」ということよくいいますね。
昨日も今日もそういう話が出た。
要するに相談者や祈願者のマイナスもらってしまうことです。

中には占い師やご祈禱師から「どうしたら受けないの?」という相談もありますし、「受けない術」というのがあったら授けてくださいという人もいます。
まあ、そういうのに類するものはあっても…決定的なそんなもの、術はないと思う。
なぜなら思うにはそこは考え方に秘密があるのですから。
つまり相談者のお話をお話として聞けなくて、その物語の登場人物になってしまうと…即ち受けます。
つまりAさんのドラマならドラマに出てくる登場人物になってしまうということがまずいのです。
術をするものはドラマの外にいるからこそ、脚本や筋を書き換えたりできるんですよ。
ディレクターや脚本家がドラマの中に入ったって何もできません。
「エ、どういうこと?」と思う方に言いますね。
誤解を恐れず言うと傍観者なら受けないんです。
つまり、相談者その人とは関わるけど、その先にはかかわらない。
だから「子供が言うこと利かないんで困っています。一遍連れてきますから。」なんて言うのは「子供さん自身がここに来たいと言っているならいいけどそうでないなら…」ということです。
そういうと、まず来ないわな。
あくまでそういう話の登場人物にはならないことです。
そうして違う次元を保っておくことが大事。
よしんば向こうから巻き込んできそうなら逆に影響を与えないこと。
こちらから相手にどうしろとか、どう思えとか言わないで、好きにさせておくことです。
なんか話しても「あ、そうなんですねえ」ってな感じです。
まず、違う世界に立つということ。
逆にここで腕を振るってなんかしらしてしまうと確実に巻き込まれます。
最悪なのが自らすすんで渦中の中心になってしまうことです。
それ、アホのやることです。
これ、「無責任だ!」とか「冷たすぎる。」という方は術を知らない方です。
「無責任」でいいんです。それ自体には。
すでに起きていること自体にはひとつもかかわっていなのにどうして責任があるのでしょう。
むろん相談する人のなかにはそういうふうに思う人もあるかもね。
でも。それはしては駄目なんです。
術はどんな相談でも熱血漢になって熱くなってしまって参加しちゃダメ。
方法論が違うという認識が崩れるからです。
もっとも人間ですから熱血漢になって参加すること自体はあってもいいんですね。全然。
ただし、術というスタンスでないならいいのです。
でも術の場合は多分に失敗しますよ。
その考えと態度は。

大事なのはできることをするだけです。
そしてできないことまでしようとしないこと。
ただそれだけ。
そして、くれぐれも手柄を立てようとか、感謝されよう、先生ってすごいっていわれようなんてことは思わないことです。
術はそこからくずれます。
結果がどんなに良くても悪くても自分のしたことはその小さな歯車の一つに過ぎないと敢えて思いなさい。
それを忘れないことです。