金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

武士の情け

なにか人にだまされたとかじゃないけど、最近、特につくづく「自分て…バカだなあと思う」。
ちょっとしたことでもそう思うが多い。
とりわけ「人見る目なんて。てんでないな。」と思う。
「他の人から見たらさぞバカなんだろうな。自分は」…とも思う。
それも気が付かず、長い人生を今まで生きてきたんですね。
幸せなことというか、おめでたいというか。
困ったものです。
亡き師匠には「牛の眼で物を見るな。」という表現で教えを受けてきたのにいまだに「牛の眼」もいいところです。
昨年末には良心も常識もないような人間をあるお寺に紹介して、とんでもない御迷惑をかけてしまったし…。その人間は師匠からも僧籍返上の勧告されてもう僧侶じゃないのだけどいかにも、あたかも宗門の僧侶みたいに活動しているようです。
懺悔の気持ちなんてなしにそのまま行こうとしてるんだから無理はどこまでもついて回るね。仏教はまず懺悔じゃないの?
そんなで仏が認めてくれるかな。
ほかにも「ああ、あの人そんなだったの?」と思うような騒動が色々・・・。
そんなこんなで、それで人間不信?にはならないけど…自分に対してはいささか不信かも。

なぜそうなる?
それは人見るとき余計な期待とか、欲目とかいろいろ盛り込んでいるんですね。
きっと。
それで自分の都合の良いところだけ集めて、自分に都合の良いイメージを作って安心している。虚像を作って喜んでいる。
なんてくだらないことしてるんだろう。
…それだけだなあ。アホやね。
 
「人を良く思うだけ」じゃ世の中は全然だめですね。ありのままみる。
正見の難しさ。
人の良い点を見ましょう…なんていいますけど、
そればかり考えていたって駄目です。当たり前だけど。
裏を返せばただ臭いものに蓋した見方だね。
ポジティブ・シンキングもほどほどが大事です。

そういうのに乗っかるのは実は「人を良く思いたいだけ」かも…たぶんね。
「人を良く思いたい」というと聞こえがいいですけど、
それ、私の「邪心」だね。
つまりどっかに知らず、知らず自分の「期待」をなにかしら勝手に微妙に盛り込んでいる。

例えば、人を許すということと、その人の『人となりが変わる』のかどうかは別なことですよね。
ちょっと考えりゃわかるけど、許したってそれだけじゃ、人なんて変わるわけない。
泣いて許しを請うので、許してやった泥棒が頭ぺこぺこ下げながら、「しめしめ、明日はどこに盗みに行こうかな…」なんて思っていることはザラですからね。
それを相手を許したら自分が楽になるから相手もいい人になったように「ああ、よかった。」と勘違いする。それで自分に〇つけて喜んでいる。
許すは許すでいいけど、許すことの意義は許すということでしかありません。
それにあれこれつけて考えるのはただの愚にもつかない希望的観測の類です。


そう思っていたら「まあ、そういうな。…誰でもそのようなものだ。」と飯縄様に笑われた。
声のない笑い。カラカラとかなり笑っている様子だけが伝わってくる。
まあ、飯縄様から見りゃそうなんでしょうね。
 
でも、そのお言葉に今日は手心があるのがわかる。
この神様にやさしくいわれると余計落ち込みます。
飯縄様には「このバカモノメが!貴様のそのざまはなんだ?」といわれたほうがいいなあ。
優しくされると自分の限界をまざまざと見ているようでつらい。
飯縄様から見れば本当は私なんてもとから話にならぬ馬鹿な奴だと思っているからなんですね。
はじめから。

元々そう思っているから逆に「少しばかり本当の浅はかな自分を見て驚いたのか? (笑)まあそう嘆くな。嘆くだけ滑稽だぞ。」とおっしゃるのでしょう。

でも、へえ、そんな優しいところあったんですか?
飯縄様には…。いやあ、気持ち悪いですね。
らしくもないですよ。
それとも、武士のナサケかな?

神様にこんなこと言っちゃホントばち当たりですね。(笑)