金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

怒りは大事な人への大事な感情。

怒りは貪瞋痴の中の筆頭です。だからこれを抑えることは大事ですが…最近は怒らなくなった…といわれます。
まあ、年齢的にいつまでも若いころみたいにつまらないことで一々ブチ切れていちゃ、体に毒だから怒らないということもあります。
でも最近怒らない理由は自分で探って言うとあまり喜べないなあ…つくづくと思う。
本当はそれは「人に何も期待しない」ということだから。

だからお弟子さんが失敗しても最近はあんまり怒らない。
注意程度。
特に新弟子さんができてからそういう感じ。
もっと言うと「信頼してない」のかも。
だれを?だれでも。
人というもの自体。
だから叱咤激励もなし。本当はもっと怒らないといけないのでしょうね。
弟子にとっては楽でいいんだろうけど、最近そのことで反省する。
怒らないのはいいことなのか?
怒るというより実際は叱るのだけどまるきり怒りがないならそこに信頼もなければ期待もないんだね。たぶん。

私の師匠が怒らない人だった。
ほとんど怒らない。
怒鳴られたり手をあげることもない。
年取るとだんだん師匠に似てくるのかも。

これといって私たちに師匠は何も期待しなかったンですね。
実際、「別にあなたに期待はしていない。」とハッキリいわれた。
やりたくない人ならそこまでで終わり。
別に修行してもらわないと困ることもないし。冥土の土産でも全くいいんですね。
「ああ、あの人は行が嫌いなんだね。やる気がないんだわ。やりたくないものは仕方ないね。」で終わり。
師匠は激しく怒らないけど胸にグッサリと来ることは言いました。
でもその師匠に育てられて、そのお陰で今日まで来たので師匠を批判する気で言うのはまったくないんです。
逆にあの師匠だったから今日の私がある。これは紛れもない事実です。
打つ蹴る怒鳴るという昔風の師匠なら辞めていたかも。
駄目弟子なのでそんなんじゃコイツは無理と思ったのかも。

何故怒らないのか?師匠の場合はそこも方便だったのかも。
私の場合は怒るのが面倒だし、疲れるから。
もっと言えば無駄だから。今日まで人の裏切りにもあいましたが、正直言って腹の底からは腹も立たない。
「もとよりそういう人だったんだね。自分が愚かだから知らなかっただけ。一番バカな奴は自分。」と思えばそれで自分的には納得できてしまうので。

まあ、そこは認識の違いで、今でさえ私はよく怒るうるさい奴と思っている人はいるようだけど(笑)

キリスト様は「天をさして誓うなかれ。地をさして誓うなかれ。」といいました。人は誓えないのが本当ならそれを信頼できないのも本当になる。ま、そうなんでしょうね。「7回の過ちを70回許せ」ともいわれた。
裏切り者のユダも裏切ると知っていて「行ってお前がなすべきことをしなさい。」とまで言ってそそのかし?もした。
キリストは弟子を信じていなかった?
それはわかりませんが、キリストはより個々の人間よりプロセスのほうを信頼していたはずです。
ユダが裏切らなくても結果は同じと思っていた、誰かがその役をするんでしょうね。
 
後でそれを考えて、「本当は自分が裏切ったんじゃないんだ。キリストは全部知っていて自分は初めからそばにいても全然信じられてなかったんだ。」と思ったユダはアイデンティティを失って、ゲヘナの丘で投身自殺した。
出来心ではなく、「そうじゃないよね。初めからお前はそういう人間なのだよ。私はお前のことをとっくにそうだと知っています。」とキリストにいわれたよう気がしたのかも。
 
考えてみれば怒らないのは簡単。なれてしまえば楽ですし。
「どうせ人はそんなものさ。」とも思えばそれでおしまい。
「しゃべらないでね」といいながらも「この人、どうせしゃべるよね。絶対に。」と思えば初めから本当に知られたくないことは一切言わない。
しゃべるのはダミーやガセだけ。
「こいつ、お金返さないよな…そういう人間だよね。」と知っていてお金渡すようなもんです。返らなくても困らないお金だけ。
返らないと知っているので別に腹も立ちません。
返しに来たら逆に驚く!「へ~何。返してくれるの?いいの?」てなもの。

最近は子供の世話になりたくないお年寄りが多い。
逆に言えば裏切られたくないから期待しないという手があります。
根底に「どうせうちの子は私なんて見ませんよ」という絶望がある。
蓋を開けてみて「やっぱりそうか」とハッキリ絶望するのが嫌だからサッサと自分から老人ホームに行くんですね。子供から「悪いけど無理だから老人ホームに行ってよ。」と言われる声は聞きたくないんでしょう。
 (実際は行かれるだけまだラッキーかも。)
自分から行くのだから子供に責めはない。
「私の子は親孝行なんですよ。」と人様に言える。
子供を責めないでいられるという大きな利得がある。


人間が子供を惨殺したと聞けば怒りがわきます。でも虎にかまれたらば瞋りでなく恐怖になる。子供を失った悲しみになる。怒りは主流ではない。なぜなら虎に怒っても仕方ないから。
保護動物だから退治しないまでもつかまえて山奥に追放するほかしかない。
怒りじゃない。虎に怒っても始まらない。虎に人を襲わないという期待はできないからね。
期待が無いから、裏切ったの、それを怒るのもない。

怒るなら虎を擬人化しないと怒れないですね。
相手が人間だから怒るんですね。信頼があるから怒る。だから怒られなくなったら喜ばしいことではないんです。
信頼はそこにもうない。

不動明王の怒りは人を愛し、人を信じるからこその怒りなんですね。
猛烈な怒りは時として人を真実に目覚めさせる。難しいことだけどね。
でもそれには大変なエネルギーがいります。
身を焦がすほどに取り巻いている大迦楼羅炎はそれでしょう。


あなたが本気で怒れる人は誰でしょうか。
あなたを本気で怒ってくれるのは誰でしょうか。
本気で怒れることは大事です。
怒りを捨て去ることなくそういう人にはとっておくことです。
とっておきの怒りを。