金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

答えるにも尋ねるにも立場が必要です。


「他所のお寺でこういうこと言われたんですけどそれって本当ですか?」という質問たまにきます。
聞けばうちとは全く宗派の違うお寺様です。
常識的に考えればわかることは別にして、異教や他宗の宗教的な問題はハッキリ言って知りませんし、わかりません。
もしそういうのに対し物申せば宗論になりますから次元が違います。
衆派の違いもありますが、もちろん、うちの宗派以外は駄目なんて思いません。
私は今の宗派が自分にあっているし、好きだからやっているだけです。
それだけ。
私における真理がほかの人における真理とは限らないですよね。
だから「○○宗より天台寺門宗の方が正しいですよね。」とまでいわれても、さあ分からない。どの部分が?と聞きたくなる。
もちろん、逆にほかの宗派が正しくてうちが間違いとも全然思いませんけど。
そこはそこの宗派そこのお寺さんの意見だし、私は私の意見。
そのお寺さんと私の意見が違っていてもそれが間違っているのか?正しいのか?はそこは宗派によりけりで別な次元の問題という場合だってある。
当たり前ですがそこのお寺はそこのお寺で自分が正しいと思うことをいう訳です。
わたしも一応はそうです。
そう言う意味じゃ同じです。
じゃあなぜ結果が違うの?
物事には答えが一つしかないものもあれば、色々あるものもあるからです。
常に答えは一つじゃない。むしろ一つなんてことはほとんどないくらいに思うね。
だから私が話すことは自分では正しいと思う訳だけど本当のところははどうなのかは分かりません。まあ、ひとつのヒントですね。
私はこう思うけど…というだけ、それだけ、だから、どうするかはあなたの決めることです。なにせ問題自体が私の問題ではないので、きかれれば意見は申しますがつまるところはご自分が取捨選択することです
無責任ですか?
でも責任はないのでそこは無責任でも全くいいと思っています。
私に言わせればむしろ自分で決めない方が無責任。

答えるには立場が必要です。
だから電話で質問される方が別に私の思うようにしなくたって全然かまわないし、思うようにしたからと言って「よくぞ、言うことを聞いてくれた」なんて嬉しいとも思いません。

ただし、私は私のところの信者さんについてはあり方はうるさく言いますよ。
だってうちはそういう信仰の団体ですからね。私には責任あるんです。そこはね。
逆に言えば明確に責任があり答えを用意すべきはそこだけです。
でも他所は他所ですから。あれこれいう権利がないよね。
逆にうちで勝手に自分流でやるというのならそう言う人は辞めてもらうだけです。

例えば仏壇のなかにいっしょにイエス様を祀っていいかどうか?という質問があったとします。
祀っていいというならそれでおしまい。
だけど「悪い」ならどう悪いんでしょう?
本来的じゃなく変なのか、害があるのか、はたまた先祖が成仏しないのか?霊的に駄目なのか?いろいろな悪いがある。
私ならそれは取り払う。
うちの信者さんならやめなさいという。
だけどよその信者さんからいけないのか?と聞かれれば「仏壇は仏壇でしょうからそれはおかしいね。」というほかない。でも、どうしてもそうしたいというならご自由にという。
亡くなったサティヤ・サイババのお寺なんてブッダもキリストもシヴァも祀ってあるらしい。
だから、その方がサイババの信者ならそこは当たり前なのかも。
そう言う責任範囲を考えないといけないともいいとも言えないんですね。
まんいち「それはよくない・・」といったところで「なぜダメなのか!」と言い争いになればこんなばかばかしいことはない。
そんなことでひと様と言い争いする理由が私にはありませんので。