金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

善と悪


「地獄や餓鬼界にいる人は罪があっているのだから罪のあるままに引き上げてはいけないのでは?」という質問がありました。
罪というものを実態のあるものと考えるとそうなりますね。
仏教では罪そのものをどうこうするということはいいません。
罪以前の領域、善悪不二の領域が真の悟りですから善悪二元論ではないのです。
善と言い悪と言いもとはひとつ、たとえば鬼子母神、いなくなった自分の子供を必死に探す母親の姿は鬼と言えども同情しますね。良き心でしょう。でも他人の子供を自のお子供たちに食べさせたという恐ろしい行為は憎むべき悪です。でもどちらも自分お子供を守り育てるという一つの心に根差しています。この心から出た行為が悪ならそれは煩悩であり、善ならそういわないで立派な心掛けとか言うのでしょうが、どちらにせよ、広い意味の煩悩には違いないのです。
だから大乗の教えにおいては煩悩即菩提。
たとえば菩提を求める心もお金儲けに鬼のようになる心も一種の「解脱」つまり楽になりたいのが目的です。
安楽に生活したい、つらい思いはしたくない。だからお金儲けという心。
だから仏道を求めるという心。そこが違うだけ。もとはひとつ。

鬼子母神は回心して良い鬼神になりましたが、子供を殺された人の怨念は残るわけでしょう。
だからある意味、鬼子母神は鬼の境涯でいつづけるんですね。
まあ、仏教の神話ではあるけど鬼子母神に子供を殺された人は鬼子母神が良い神様になっても喜べないかもね。
それはしょうがない。業とはそういうもの。
でも業とか罪を実態を仏教的に言えば「愚痴」ということですね。
正しいということがわからない。
愚痴には知恵の目を開くほかない。
だからさっきの「引き揚げては良くない」は、彼らが「智慧の目が開いてはいけない」ということと同じことになります。
餓鬼や地獄の衆生でい続けてほしい。要するにそれは平たく言えば「許せない」ということと一つです。
勿論許せない行為はありますね。
アングリマーラは多くの人を間違った宗教を信じて殺しました。
のちに仏教者になったけど恨みのある遺族の人たちに殺された。釈尊も出てきてそれを止めたとは書いてない。ペナルティはペナルティ。
だから「人を大勢、惨殺した人であっても仏教の考えでは、死刑にしたりてはいけないのだ」とは私は全然思わない。
しかしながらです。
業報は受けねばならないけど、どんな悪人でも正しきを求めようとすることは許されねばなりません。
仏教で言う善悪は過去の行為以上に今、ベクトルがどっちに向かっているのかなのだと思う。

過去に悪事を働いても今更生に生きていこうとするなら善。
過去に大きな善行を積んでもこれからは人なんかどうでもいいしたい放題で生きたいと考えるなら悪。
罪が無いから善ではないし、罪があるから悪でもない。
罪を犯したけれども善人もいる。罪を犯していないけど悪人もいる。
さらには罪を犯したからこそ初めて善人に成れることもある。
本当はね。そう言うことだと思います。