金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

煩悩即菩提


煩悩即菩提
これというのは汚らしい煩悩が素晴らしい菩提につながるという意味ではないと思う。
私たちは本当は菩提というものを知らない。
なのに、それを絵に描いた餅のように素晴らしいんだと思っているでしょう。
その本当は何一つ知りもしないものを素晴らしいんだと思って追及している。

大乗の菩提は「ニルヴァーナ」の意ではない。
火が消えたような涅槃ではない。輪廻の止息でもない。
生き生きと生きることそのものが菩提なのです。
他に菩提はない。
生きててごめんなさいみたいな上座部仏教でいう生のテーゼとはおさらば。
生きなさい。苦しみなさい。喜びなさい。
生きている。それが菩提そのもの。
それがわかった時。その時はずれていくものがある。
それが解脱。
サンサーラつまり輪廻からの解脱ではない。
因果からの形としてのも解脱はない。

時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。
そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。
AがBに変化するなら同質のものが基盤ならないならそれは変化ではない。Bの出現はAとは関係ないことになります。

だから大乗で「阿羅漢」は聖者であることは変わらないが本当に解脱するのではない。無色界に転生するだけと考える。
無色界は疑似的滅侭の世界です。
大乗の禅は「不昧因果」。そこは上座部と全く違う。
もし、そこからいなくなるためにはどこにも存在しなくなるほかない。
皆さんはどこにも存在したくないですか?
完全に死にたいですか?上座部の言う涅槃はそういうことですね。
完全に死ぬために生を最小限度に規制するのがいわゆる三蔵教の律です。それを守ってれば欲はないから実にすがすがしい。
それは丁度死ぬ覚悟ができている人のすがすがしさです。
この世にいなくなるのだから自我の主張はなくなる。
でも、そういうものを私においては目標にしていません。
ハッキリ言って私はまっぴらごめんです。

上座部の瞑想は素晴らしいものがある。だけど目的地は我々大乗とはまったく違う。
我々は滅侭なんかしなくても空なんです。その本質において。
賢者も愚者も如来帝釈天も毘那夜伽もミミズも変わらない。
知るか知らないかのみです。同じ空性の存在。
空性とは「空の性格」です。何の性格?存在個々の性格。
だから個我は存在しないんじゃない。
それを存在しないと思うなら修行しているのは誰?
解脱するのは誰?