金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

私の法華経 その1


法華経天台宗では最も大事にされるもの。
それは山門に限らず寺門宗であっても同じです。融通念仏宗も元は天台宗なので行法は念仏ですが所依は法華経です。
 
法華経の話といっても、私は学者ではないので歴史上の正確なことや細かいことは知りません。インドの古典的な言葉もわからないし。あえて学問というようなものはなにもないのですが、少しく法華経を見ていきたいと思います。まあ言葉を拾っての感想のようなものです。
法華経は全体の構成は一部八巻二十八品です。何とか品というあとに数字が来ますが、これは何とか品が本の各章のようなもので、そのあとの数字が何章目かを表しています。
また法華三部経という場合は法華経以外に前に開経として無量義経。おしまいに結経として観普賢菩薩行法経があります。
まず、大事なことはこれら法華三部経に限らず、多くの大乗経典はお釈迦様の説いたことになっていますが、歴史上そのようなことはありません。お釈迦様は紀元前5世紀から四世紀くらいの方といわれます。今のネパールの地に王国で生まれました。
法華経は早くとも紀元前1世紀ころといいますから釈尊の在世とは何百年も開きがあります。
多くの大乗経典はお釈迦様の出てくる物語のようなものです。これはひとつには上座部仏教のような専門の僧侶ではなく在家の人に親しんでいただきやすいようにそのようになっています。法華経は実は在家主義。つまり菩薩を中心にした教えです。
 
では今日は無量義から見ていきましょう。
無量義経は一部一巻三品からなります。
最初は徳行品という章から始まります。
 
この章ではまず大荘厳菩薩という方が登場し、八万の菩薩や大群衆とともに釈尊の周りを100回1000回と巡って礼拝します。
神通力をもって天から花が降り、百味おのずから湧出し、天の諸々の荘厳の資具が現れます。聴衆は人間だけではないので神々も集まり奇跡が起こります。
もうここからして歴史上の出来事ではないに決まっています。
この中で菩薩は如来の身体的特徴である32相、80種好をあげて釈尊をたたえますが、しかしながら「しかも実に相,非相の色なし。一切の有相、まなこの対、絶せり、無相の相にして有相の身なり。」とすでに釈尊法身仏つまり肉身ではなく宇宙をの現れである法身を持つことを述べています。
普通釈尊の本地が現れるのは法華経の最も大事な「如来寿量品」に明かされているといいますが、すでにここにさらりと明かされています。
一番、最初のものがしばしば奥儀なのです。
しばしば何でもそうです。
また「また人、刀杖をもって来たって害を加え、悪口、罵辱すれどもついに瞋り給わず」とあります。
これも因果をしずかに見据えた宿命通があってはじめてできることでしょう。
ここにたとえ法身の現れである釈尊、諸々の善行を重ねて小事を繰り返す存在であっても杖刀で脅され、打たれるなどの因果は受けるもの明かされいています。
この世の禍福は聖者と言えども同じことであり、ただ受け止め方が違うということです。
よく悟れば因果を脱せられるか?不幸なことは全く、もうおきなくなるのかという答えはここにあります。
しかも菩薩は言います。「衆生身相の相もまた然しなり。」
つまりは法身の体は我々も同じことなのです。釈尊だけを特殊化していうのではない。
釈尊は我々の知恵を完成した姿として大きに違うように描かれていますが、仏教は仏になる教え。釈尊が宇宙人のような存在や創造主のような我々と全く本質の違う存在なら仏になろうという宗教自体が無意味になりましょう。
 このシリーズは時々更新していきます。