金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

布教には責任があります


 
白戸師匠は時に拝むと驚くような結果を出しました。

エイズ患者の御祈祷をしたこともあります。
今でこそ薬もだいぶ良くなって亡くなる方も大幅に減りましたが当時はまだ罹れば死病と言われて恐れられた。
それを月々浴油で祈って、とうとう陰性にまでしたことがある。
この場合は仲介者の信者さんがいました。それで報告が来た。
ところが「さぞ喜んでいることだろう」と電話で状況を聞いてみると、当の依頼者の方ではにべもなく「もう、治りましたからご祈祷はいりません。」の一言で電話を切った。
お礼参りに来るどころか「おかげさま」「お世話になった」の言葉すらなかった。
 
実は難しい病気をご祈祷して良くあることです。
家族や知人に否定的な人がいて「祈祷だって?そんなもので治るわけない。それってはじめから誤診だったんだ。」と。
それでそれを鵜呑みにする。
医者自身は誤診とは滅多に言いません。責任問題ですから。
むしろ一番不思議に思うのは医者です。
だから医者で病気になると祈祷頼む人も少なくはない。
しまいに「そうか、騙されて金稼がれていたのだ」とさえも思う。
だから礼なんか言うわけがないのですね。
こういうことがあるので私は本人に信仰のない祈祷は一切お断りしています。
礼を言われないばかりか、詐欺師呼ばわりまでしかねないので。
 
それでこの話には後日談がある。
なんと祈祷をやめて半年してまた病気になったという。
どうしてそういうことになったのかは聞いていません。
それで今度は本人の家から大慌てで電話で開口一番「先生、大変です。また、病気がなりました。至急拝んでください。」と言ってきたそうです。

師匠は多くを語らず「無理ですね。前回も神様だからこそできたので奇跡のようなものでしょう。それをまたにすぐ簡単に同じことをしろとわれてもそれはできない。」と言って断ったそうです。
無慈悲だと思うかもしれませんが私だとしても断ります。
頼む側にも責任というものがある。
拙寺は講員制ですから講員をやめた方は対象外ですのでもっと話は簡単です。
その後、もう電話は来なかった。
そしてその数日後、当人のお母さんは絶望のあまり自殺したとのことです。
それを伝えにこれまた大慌てで寺に来た仲介者からそれを聞いて師匠は「そもそも、あなた自身が信仰というものを理解していなかったのではないか。
紹介者だというならあなたが信仰とはどういうものか、そういうものの売り買いのようなものではないと教えるべきだったと思う。」
 
私にこのショッキングな話は深い教訓を与えました。
だから拙寺は本人が信仰しないのなら個別の祈祷はしない。
共通了解がないのに個別の案件で責任のあることなんかできませんから。
お参りも来ない、顔の見えない人の紹介も禁止。
人助けだからそれでもすべきだという人は勝手にしてください。
私はまっぴらごめんです。私はそこは冷酷無情ですので。
助かりたい側にこそ大きな自己責任はある。
医者だって一方的に処置するだけで病は治りません。

そして布教師でも宗教者でもない一信徒が世間によくわからないままに信仰を語ったり、勧めようとしてはならない。
それは僭越です。

うちに入門した人でもともと仏教のブログを書かれて、なかなか有名な方もいましたが「あなたは一人前の仏教者ですか?違うでしょう。専門家とは認めなられない。したがってそう言うブログは書くべきではない。せっかくファンも大勢いるし長年やっているのだからやめるのはいやだというならそれでもいい。かわりに当院から速やかに去るように」と言いました。
この方はブログはやめた由です。

一人前に世間に教えを垂れるなら拙寺の一信徒でいる必要などない。
布教には大きな責任が伴います。素人のすることではない。
誰か人を連れてくれば私が喜ぶと思っている愚かな人もいますが、当人が頼むならいざ知らず信仰に何も関心もしない人などを不承不承連れてくるのは、私も当人も迷惑至極です。

「一番の布教は語ることなくご自分がしっかりご利益いただいて幸せな人間になること」と言っています。