朝、准胝陀羅尼を唱えながら瞑目して定印を結び、瞑想とも禪とも就かぬことをしておりましたら、・・・・
風狐様から突如、
「不動尊大威怒王秘密陀羅尼経に十二天が深禅定の楽を捨てて、集まる場面がある。 知っておろう。
これに対して大日如来は常に自受法楽の三昧の三昧に入っているという。そなたはこのふたつの三昧はどう違うと思うか?」
と問われた。
どう違うのだろう・・・・?
ややあって風狐様の言うようには
「単に十二天は浅く、大日如来は深いなどというのでは答えにならぬ。
外道と仏道の違いなどというのも何も言わぬに等しい。
しからば、これはその違いはなへんにあるかを問うものぞ。
それはな、ここでいう十二天の禅定は個の三昧なのだ。いわば心の働きに過ぎぬ。
大日如来の自受法楽の三昧とはそのままに万象の姿をいう。
そこに自も他もない三昧だ。ゆえにその三昧は十二天の三昧のように捨てることなき三昧である。捨てるも捨てないもないのだ。所作に非ず。境地に非ず。
天地自然のありさまになんの思儀も分別も加えず、そのままの有様。
たとえていうなれば、小鳥が見るこの世の中も、お前が見るこの世の中も、梵天帝釈が見るこの世の中も何も変わらぬそのまま五官にふるる処の天地がそのままに大日の自受法楽であるぞ。」
声にならぬ笑い声が聞こえて終わった。
「梓 霊狐」はこの世やあの世の道理について深いアドバイスをくれますが、風狐様は法についてのお話が多い。
上座の狐さんで梓ほどあまりおみえにならぬ方です。