一神教では神様は我々を作った方。だからえらい!
この考えは親父、おふくろは自分を作った人だから偉いという尊敬と同じ。
ただこれは「だからえらいんだよ」という理屈じゃない。命という最大のギフトをもらっている。理屈じゃなく気持ちだ。
酒飲みで暴力的で働かないくそオヤジでもその人がいないなら自分もいない。
そういうこと。。
つまり親や先祖は自分の存在の最大の功労者なのだ。
だが逆もまた真なりで自分抜きに偉いはない。
自分がいるからこそはじめて偉いものというものが存在する。
例えば現在の自分がどんなであれ自分をぬきにしては自分の先祖は尊敬できない。
同じことだが。仏さまってどうして偉いのだろうか?
自分の中の尊いものの根源だからだ。
専門的なこと言い方で言えば内在の仏性があるからわかるのだ。
同質の尊いものがあるからこそそこに偉さを認められるのだと思う。
それがわかるのだ。
でも仮にその人間に善悪是非も慈悲もないとするならばそれもわからないかもしれない。
江戸の大易学者 新井伯蛾先生は偉い学者とグウタラで下らぬ人間がいっしょに暮らしたら、その偉大さに感化されるか?という設問を設け、
その答えはNOといっている。
素晴らしい学者だ,。立派な人物だと尊敬できるには自分の中にそういうものへの価値観があるからだ。
無ければその偉大さは分らない。
ま、いってみればお茶道をしないものが、名匠のお点前の素晴らしさがわからないのと一緒だ。
自分のなかのよきものを相手に見つけたとき人は偉さを感じる。
偉さはすでに自分の内にあるからこそ、その偉大さがあらわれている人をすごいとわかるのだ。
たとえば私は皇室を尊敬している。
「同じ人間でしょ。なぜ、皇族だけ特別に敬意を表するの?それ差別的ではおかしいでしょ?」と言った人がいた。
私は皇室の中に日本なるものが息づいていると信じている。
天皇おひとりおひとりの人格がどうこうではない。
皇室というものに歴史的な日本の軸がある。
皇室への尊敬は個人への尊敬と少し違う。
私の中の日本は皇室の中にいきずいている日本の良さに呼応する。だから尊敬するのだ。
身分が上だとか下だとか言う差別の問題ではない。
人間としては陛下も国王も我々も何も違う訳はない
だから戦時中みたいに天皇に比べれば自分は身分が低いので陛下のお為に死んで当然とかではない。
差別感ではなくむしろある意味おなじだからだ。
そこに我らの生きてきた日本なるものを見据えるからこそ敬意を払う。
むしろ自分の中にそれがあるからこそ敬意を払うのだ。
すべての愛情は自己愛の変形、同じように全ての敬意は自分の中で大事にしているものへの敬意だ。
先の質問をした人は尊敬出来るものを何か持っているのだろうか?
私にとって皇室への敬意は日本の文化や歴史への敬意とひとつだ。
私はこの国に生まれ先祖からの血を受け継いでいる。
日本とは土地ではない。
自国の歴史や先祖に一切敬意を持てないものには内心、神も仏も分らないなと思う。
仏教でいう「断見」のきわみだ。
唯物論的な人はそうだね。そういう人には今と自分とものしかない。
偉さとか権威に反発を感じるだけの幼稚な人間だ。
私的には淋しいことだと思う。