金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

十非心 その7  魔道 

「七つには その心念々に大威勢ありて、身口意纔かに所作あり、一切弭き従わんを欲するは、これ欲界主の心を発して魔道を行ずるなり。」

 

宗教者でも成功している人、お説教がうまいとか、特異の神通力があるとか、大寺院の住職、大学者。

なんにせよ大きな力を得た人。世俗であっても同じ。富豪や大スター 評論家 芸術家

学閥 門閥 いずれもその道の権威。

わずかにこうしたいと思えばそうすることが容易な境涯です。

自由がきいてしまう。

まさに一切皆なびき従うまでになった方。

だがえてして、こうなると本来の修行者の顔はどこかに消える。

何か完成した人、偉大な人のように自分で誤解する。傲慢の極みに陥りやすい危ない境涯。

確かにここ迄なるのは容易じゃない。この人だからできたのかもしれない。

誰でもそんなふうになれるわけもない。

それはそうだろう。

だがここで安住して止まってしまう。

そこに居続けることで感謝もなく反省もなくなる。自分だけでここまで来たと誤解する。

自分の師、先輩、同輩、後輩、支えてくれた人々を忘れてしまう。

口を開けば自分の権威を示す。

素晴らしい人だったのが最後はまったく素晴らしくない。

 

人は止まれば退歩あるのみ。

自分の地位を頼りにするうち、いつの間にか実際のすばらしさは消え失せたりもする。

名前だけで実力のない存在。

だけどいつまでも権威を振りかざそうとする心のみが残る。

物事の順序がない。

長年頑張ってきても尊敬されないで、一日も早くいなくなれとか、老害などと陰口も言われる存在。

 

それが欲界天の頂上にすむ第六天魔王の心です。

欲界の主 魔王の心。

絶対者の心。紙一重。

 

江戸時代のお話。

「乞食桃水」というお坊さんの話があります。

桃水さんは禅門の高僧であるが、ついに寺の中に仏法を見いだせなくなった。

皆が特殊な目で見て崇めるから。

桃水さんは凄い人、偉い人、そんなの常識 になってしまった。

それで自分にとって寺が修行の場でなくなってしまったと悟った桃水さんは

「こんなところに修行者がいては駄目だ」と寺から逃げ出して乞食になった。

物乞いになって橋の下で残飯集めて腐らせて御酢を作ってそれを売って生活した。

お寺の弟子が連れ戻しに来たら「お前はわしと同じ飯が食えるか?

食えたらかえってやる。」と腐った飯を突き付けた。

お迎えの弟子は食べられず逃げ帰った。

こうやって最後はただの「酢屋のおやじ」になって生涯を終わった。

もうお寺に帰らなかった。もう、彼が偉いお坊さんだとは誰も知らない。

仏道のことなど何も語らなかったらしい。

お寺に帰れば魔王になってしまう。

魔王にならなかった高僧のお話です。

新宗教の人でも昔の人は違う。

立正佼成会の長沼妙佼師などは「まず、人様」といわれたそうです。

 「まず 人様」

私は大それた力はないので魔王などというものにはなり様がないですが、それでもとかく「私、私」で生きている。

感謝がエベレスト頂上の空気並みに希薄で罰当たりな我が身には耳の痛い話です。