世間の悉地は在家の求むる処。
出世間の悉地は出家の求むる処。
おのずと違う。
その区別を知らず世間の悉地を出家のかたちで果たそうとすることは無理だ。
仏の世界へ来てまでそこで世間の夢を実現しようとする者には所詮、出世間もただの俗世間でしかない。
つまらないことだ。
仏道修行をしたいなどと願ってもそういう心の人は修行者は決して近くに置くべき人間ではない。
この価値観が倒錯している人はどんなに修行しても偽物でしかないからだ。
能力的であってもそうだ。むしろ能力的なら余計悪い。
私自身は別段能力的人物でもないし、俗臭にまみれた生活をおくるのみの凡俗の徒だがその願いまでもが俗であっては出家はやめたがいいと思っている。
経験から言えばビジネスの世界で有能だというものはむしろ仏道には疎い。
少なくとも有能の自覚のあるものはそうだ。
そのままの調子でいけると思い込んでいるからだ。
そういう人の対象はあくまで人や世間であって仏になっていない。
極端に言えば仏道を舐めている。
志なきものは仏弟子に値せず。
そんなこといったって出家の悉地といえば悟りだろう?
それは遠いのではという方もいる。
そうかな。
私はそうは思わない。
私は出世間とは世間の評価で生きない。
自分の生き方を己れで是とする。
世間の評価などどうでもよい。
依怙を己れ自身として自分が是と思うならそのままそう生きる。
これも一種の悉地だと思う。
権力も金も評価も魅力的に見えて人を自由にするものではないことを知っている先人。
布袋和尚や乞食桃水、犬儒派の哲人ディオゲネスのような心の人こそ真の自由人だ。
その心や実にうらやましい。
私自身は悟りのことはもちろん、いま語ったことのほかはなにひとつ知らないが。