金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

善導大師の説く三心

善導大師の『往生礼讃』にいう。

一には至誠心とはいわゆる身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎称揚し、意業に彼の仏を専念観察す。凡そ三業を起こすには必ず須らく真実なるべきが故に至誠心と名づく。二には深心とは即ちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転し火宅を出ずと信知し、今、弥陀の本弘誓願及び名号を称すること下十声一声等に至るまで、定んで往生を得と信知し、乃至一念も疑心あることなきが故に深心と名づく。三には回向発願心とは、所作の一切の善根悉くみな回して往生を願ず、故に回向発願心と名づく。この三心を具すれば必ず生ずることを得、若し一心をも少かけぬれば、即ち生ずることを得ず」

浄土宗開祖・法然上人は偏依善導といわれ、余の中国浄土教の学匠の説より善導大師の説くところを上に置き、とりわけこの深心、至上心、回向発願心をとても大事にされたという。

その故は善導大師のみが三昧発得し、彌陀の浄土を目の当たりにした悉地を得られたからだと思う。

ここに言う至誠心は三密加持そのものであり、深心は誓願を頼む一念、

回向発願心は必ず持つべき普皆回向の心だ。

 

思うに密教の悉地においても全く同じだと思う。

彌陀を不動に変え、大日如来に変え、あるいは毘沙門天に変えても同じと思う。

 

安楽国に生じる生じないの一事では阿弥陀に頼むのが妥当なのかもしれないが

曼荼羅の考えでは一尊即余尊であるから、この心をもって加持練行怠らねば、仏土や善処に赴くは必定と思う。

悉地(法の成就)は世間出世間の大事、小事に関わらずこれによると思う。