日本の本格的浄土思想は源信僧都の「往生要集」にはじまるといいます。
元三慈慧大師のお弟子で大師尊像で両童子の一人であらわされる慧心流の祖が源信さん。
もう一人は檀那流の覚運さん。ともに慈慧大師のお弟子。
ですが源信僧都の考えは専修念仏ではない。
「必ずしも念仏をもっぱらにせず、すべからく余行を明かして各々の楽欲に任すべしとあります。」
楽欲にまかすとは「ねがい」や欲するところに従って、思い思いに余行をなせということです。
他の経典の功徳ある神呪などを否定するのは大無量寿経の「誹謗正法」に当たる故と思います。
大無量寿経はそれでは往生できないと言いますから。
少なくとも天台法門は余行を廃する専修念仏は取らないところです。
私自身も念仏は申しますが専修念仏の思想には何の興味もない。
だからと言って専修念仏の信仰がよくないとかも思いません。
ただ、天台僧のとるべきものではないでしょう。源信僧都も「かならずしももっぱらにせず」であるからもっぱらであっても悪くはない。
良くないとすれば余経を毀傍する増上慢の罪で念仏自体は往生の主要な一手段であろう。