金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「アフガン少女、両親殺害したタリバン戦闘員2人を射殺」に思う。

 

平和な日本で非暴力の主張や自分はたとえ殺されても人は殺さない、傷つけないと言うのはたやすい。

でも現実に誰がこの少女を非難できるのだろうか?

 

むしろ私は彼女が生き残れたことを喜び、その勇気をたたえたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/91065ba282135ab81767219907bb9518bd9fbe0f

歴史は常に血塗られてきた。今もだ。

人を殺さないのは殺さずに済む環境にあるからかもしれない。

 

殺さないのでなく、殺せないだけかもしれない。そうやって無抵抗を余儀なくされ虐殺されていった人は今も世界に無数にいる。

非武力を言うのは結構だがそれがそのまま虐殺の容認になる世界もある。

 

親鸞聖人の言葉に

「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」というのがある。

 

人間は人を1000人殺そうと思っても誰一人も傷つけずで終わる人もいれば、

誰一人きずつけたくないと思っていても結果的に多くの人を殺戮する人もあるといわれた。

因果とはそういうもの。今現在におき換えれば環境とはそういうものだ。 

 

私が人を傷つけられず、傷つけずにいられるのは、多分に社会や国を平和に守る人がいる恩恵を受けているからだ。

私が人格者で性格が円満だからではない。

親鸞聖人のおおせのように私が善人だからなどでは決してない。

周囲のお陰でそういう不幸な環境にいないからだ。

(もし不幸にしてこういう場面でこの少女のような行動がとれたら、私自身は自分がその行動がとれたことを不幸中の幸いと思うだろう。)

 

 仏教では環境の恩恵。それを四恩という。

父母の恩、社会の恩、国を開いた人(王)への恩、仏法僧の恩。

 

それを忘れてはならないといつも思っています。

 同時に殺し殺されないで済む平和の恩恵を世界に拡大して行かなくてはならない。

少女が殺戮をしないで済む世の中を。

 

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