行をするのにどんどんこなしていく人がいる。次から次。
法華経は読む。念誦はする。礼拝行はする。どれも短期間でどんどんやる。
山へ行けといえばそれもどんどん行く。
それで「さあ、次は何したらいい?」と言ってくる。
此れじゃパソコンゲームだね。
こういう人はパワフルだがその分、難が見えない。
一見、出来がいいように見えるが一番行の世界から遠い人も少なくない。
私はそう思ってみています。
必ず挫折する。
それは行を味わうのでは無く、クリアすべきやっつけ仕事になっているからです。
自分は何千冊本を読んだと自慢している似非読書家と同じだ。何も学んでない。
それで「さあ、次は何をしたらいい?」と言ってくる。
何をしても無駄です。
そういう人は、
こういうのは一番危ない。
行というものを見誤っている場合がある。
行に目的などない。
行は行をすること以外何もない。
世福も関係ない。金持ちになるとかもない。
病気が治るとかもない。
霊障もとれない。
恋人もできない。
そういうことは祈願に加えて世間の善道を行って解決するがいい。
行は出世間のことです。
修行はただ少しでも仏に近づきたいという以外は何もない。
それも月に向かって飛ぶ雁のようなものでしかない。
だから目的なんかない。
やりたいからやるだけ、拝みたいから拝むだけ。
そうでないならしないがよい。
シャカリキになってる人は何かは言わないけど目的があると思っているんだね。
何だか知らないけどそんなの行なんかしても全然叶わないと思うよ。
目的のある行はニセモンだ。
行事自体が喜びを持てないとか楽しくないならやめたらいい。
ゴルフやスキーやハイキングをイヤイヤやるのと同じくらい無意味だ。