死んだらどうなるか聞かれますがホントのところは分るわけない。死んでないから。
死んだらおしまいだよ、無だよと言う人もいるが…別にそれも否定しない。
そうかも。でも・・・そうじゃないかも。
ホントのホントは分らない。
死後なんかしらあるのと同じくらいの意味でそれも否定はしない。
ただ仏教では精神だけになるとかは言わないんですね。完全に精神だけにはならない。
精神には必ず物質が付随するという考えですので。
物心一如です。
それで霊体とかいう言葉もできてきたんでしょう。西洋から来たスピリチュアリズムで。
だから霊体とか幽体とかは古い言葉ではない。
無色界と言う阿羅漢が転生する世界でも微細な物質はあると考えます。
(大乗では阿羅漢は入滅しない)
ただそれは説一切有部の言うような地水火風の四大元素ではないでしょう。
そういう地上の元素とは同じじゃない。
と言うよりはこの四大元素は地上におけるものに限定されてるわけじゃないんでしょうね。本当は。
体なくして心なし。
それは法華経の存在論・「十如是」でもそういうことになっている。
存在の十の性質
「如是体」と言うのがありますね。
もっとも大乗では存在論は究極は認識論と同じと言うことになる。
上座部では基本的に存在は宇宙論だけど、「そうやって能書き垂れて論じてる奴自体はどうよ」と言うのが大乗では極めて重要だ・・・という考えが入ってくる。
皆さんのよく言う、死後の存在なんか死んでないからわからない。死んだら分かるのではないか・・・という考えがそもそも認識論です。
宇宙論というのはそうじゃなくて宇宙はこれこれこうだからこう、理屈から言えばこうと言う奴。
科学に近い。と言うか科学はそれ自体が究極宇宙論です。
仏教でいう悟りと言うのは宇宙論じゃない、究極の認識論です。
だから宇宙の真理と悟りは関係ないんですね。本当は。
そういう説明論的なものじゃわからない。科学は説明は説明できなきゃ科学とは言えないけど・・・
だから「科学的な仏教」などと聞くと「噴飯物」だと思う。
でも上座部はまあ、部分的にはそういってもいいのかもね。「四大仮和合」だから。
というわけで科学的には死はヂ・エンドですが…認識論としては認識さえあれば損じ亜はあるということになる。
もし死んじゃった後、ここはどこ?わたしはだれ?なら存在はあるんですね。
そいつが俗にいう霊魂と言うことになる。
でも客観的にオバケが出たりしてもそれが何らかのレコードでしかないならないんだね。
オバケは残留思念だから。お化けが出ても死後があるといえない。
空間に残るレコードでしかないから。写真やビデオのレコードみたいなものです。
もうちょっこっと能動的ですが。
輪廻の主体がないと死後はあるとは言えないんですね。仏教では。