金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

民、威を畏れずんば大威に至る

「民威を畏れずんば大威に至る」

これ「荒神祭文」の中にあってどういう意味かよくわからなかった。

民で切るべきなのに民威と書いてあったので余計わからない。

そこで民(ひと)威を畏れずんばと読むべきかと勝手に解釈していました。

そうしたら偶然この間「老子道徳経」を読んで言いてこの言葉に出会いました。

  民(たみ)、威(い)を畏(おそ)れざれば、
       則(すなわ)ち大威(たいい)至る。
    その居る所を狎(せば)めること無く、
       その生くる所を厭(あつ)すること無かれ。
    それ唯(た)だ厭せず、ここを以(も)って厭せられず。
    ここを以って聖人は、自ら知りて自ら見(あら)わさず、
       自ら愛して自ら貴(たっと)しとせず。
    故に彼(か)れを去(す)てて此(こ)れを取る。
 
出所はこれらしい。
何だか難解ですがこれを読むコツは老子の思想の上に立っているという事ですね。
解説によってはこの大威つまりドえらいことになるのは為政者だったり民だったりで色々のようですが、誰がえらいことになるかは措いて、「皆さん恐れるべきを畏れずにいたらもっとえらいことになるよ。」と言う意味ではあると思います。
このもっとえらいことになるのは天の自然の働きであるというのが老子の思想でしょう。
だから「為政者のありようがよくなくて民が政府に畏敬の念を持たなくなれば、やがてはもっと社会は乱れてさらに大事になるのだ」という風な解釈は社会思想の枠に限定されていて少し違うようにも思う。
民を逐一どうにかしようと思うな。自然であれと言っはていますが、そうせずに大事に至るのは民意によるのではなく、天地大道のなす天譴でしょう。それが大威だと思う。

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もっと平たく言えば「人々が本来恐れるべきものを恐れない状況になればついには天の災いが起こる」と言う意味かと。
老子(道教)は孔子(儒教)のようにあくまで人間を社会的存在であることを軸に論じる立場ではない。
その外にある自然の道理にむしろ重きを置いています。
あらゆるものは「道」の兆しです。
その意味では老子の思想は社会的な観察眼においては儒教に劣るが、それを含む自然の働きに対する慧眼は優れている。
 
老子の思想で言えば「天」は我々の知る神様のように喜怒哀楽の感情はもたないがそこには厳然とした法則や道理があると考えたようです。人もそのシステムの中の存在。別じゃないんですね。
環境問題が抜き差しならない今を考えると老子の教えの方が一枚上手だったかも。
 
そう思えば、今回の疫病問題もそうだし南極北極の氷が解ける。干ばつやバッタの大群。現代の自然災害もまさに我々が恐れるものを恐れないことで「大威」に至っているように思うのです。