稀に出張祈祷を頼んでくる人がいらっしゃいますが・・・講員様以外の祈祷で出張祈祷は一切いかないと決めています。
理由は共通理解なくして祈願はできないからです。
こういう依頼をしてくるのは地鎮祭とかは別にして多くの場合、霊現象や怪奇現象に伴う依頼が多いものです。
それで必要な処置を講じますが、残念なのはそれで終わるものと終らないものがあるけどそこを全く気にしてくれないこと。
極端な話ここはお墓が建っていたという土地を買って墓石を処分して家を建てたりしたとします。
そういうことを極めて軽く考える。
「ちょっとお祓いしといて~」みたいな感じで。
でも、ちょいとお祓いで済むもんとそうでないものがある
「これ毎年供養してください」とか、「ここは欠かさず良くお参りしてください」とか言うと怪訝な顔する。
「お参りするのアンタの仕事だろ」
「金払ってあんた呼んだのににまだそんなことさせるのか?」
そんなことしたくないから呼んだのにみたいな顔する。
事の重大さが判らない。同時にそういう人は本当は「霊的なものに配慮しなさい」と言う学びの時期に来ているのだと思いますが。
不養生な人が病気をきっかけに健康管理に配慮するのと同じです。
でも配慮しない。
これって医者にいって医者の言う養生を守らずに治すのは「それ医者の仕事だろ」みたいなこと言う人に似てる。自分がするべきことはないと思っている。
無論一度何かすれば十分なものもありますよ。
そうした判定に簡単に言えばどっちが先にあったかは大きいんです。
とりわけ先にあった墓や社などをのけて家を建てるなんて本当は引っ越すべきくらいだが、そういうことの怖さが判らない。
だから外部の相談なら、そういう場合は最近は「引っ越し相談」しかしない。
実際まあ、引っ越せればラッキーだ。悪因縁にひっかかってもう移動できないのが多い。引っ越せるなら引越しすべきなのは本当なのだ。最善の策だ。
で、「引っ越せません」と頑張れば
「ではもう方法はないですね」でおしまいにします。
目に見えるもんじゃないから、「毎年来て稼ごうとしている」なんて思われるのもバカバカしいのではじめっから出かけることは一切しない。選択肢にない。
まあ、次善策で鎮宅霊符法とかあるけどこれも毎年変えなきゃダメですね。
「これも一回拝めば替えないでいいですね。」と替えない前提で来るのは「お札は基本的には毎年替えるものですが、それはあなたの自由です。」でおしまいにする。
宗教的なものにずっと付き合うのはたまらないと思うのでしょうね。
それはこっちもお互い様だ。
そういうことです。