今日「先生と知り合ってそこそこ立ちますが、先生が自分のお師匠を悪しざまに言うのは聞いたことない。それは大事なことなのだと思うんです」といわれた。
それは別に自然なことである。
私が師匠の悪口を一つも言わないのは言うべき材料がないからだ。
ほかの誰でもいけない。
あの師あってこそ現に今の自分がいるのだ。
そう深く思っている。
尊天にみちびかれて出会った師だ。
だから感謝の外はなにもない。
転じて私は自分の選んだ師匠をあしざまに言う人は信じない。
私はそういう人を友と思わない。
たとえその時、私にどんなに良くしてくれても裏表があり、足をすくいかねぬ人間だとしか思わない。
何もあえて感じ悪く接する必要もないから、うわべは親しくしても心は違う。
同時に師を悪しざまに言うことは自分に学ぶべき人を見いだす目がないという証明だ。
一種の卑怯者である。
以前ある寺院であることから糾弾された人がいた。
私から見て別に糾弾されるようなことではないと思ったが、お上からの厳重なる注意もあり周囲はそう思わなかったようだ。
寺と言うところはお上に弱い。
今まで周囲も意に介さず黙っていたらしいが、これを機にその人を首謀者と言うべき悪者だとこぞって指弾した。
周囲が口を極めて悪くいう中、その人の弟子である某師はどれが何を言おうと決して同調して悪口は言わなかったという。
実に見るべき態度である。
蘇悉地羯羅経に「師の短を窺うなかれ」とある。
師を信じないものはその法も信じないものだ。
故に法は誰から受けても同じではない。
受けるべき人から受けるべきだ。
入門時にこの一句を師匠は「なぜそういうかわかるか?」と聞かれた。
そして「短は誰でもある。たとえ師だと言っても短所があるのが当たり前。
それが人間だ。
だが、そこにひっかかっていては心より信じて法を受け入れることもできなくなる。
信じることのできない法は役には立たない。」と
数十年前のこと、私を悪しざまに言ったある弟子がいた。
私は身におぼえがないので「なぜそういうことを言うのか?」と聞くべく、呼んだらもう、平伏してひたすら、すみません すみませんというだけで
わけわからない。
席について茶を飲めと勧めても座らない。
終いに面倒なので頭の上からお茶をかけて言った。
「お前さんも自分の師匠を批判できるとは偉くなったものだね。
私のことはどこでだれにどんなに悪く言っても構わないよ。いくらでも言え。
だがひとつだけ注意なさい。
私の耳にだけには入らぬようにということを。
今度聞こえてきたその時はそのぶんではおかぬから。」
まあ、若気の至りだが思えば乱暴なことをしたものだ。
今反省すればこんなことをしたのもある意味どう接すべきかがわからず怖かったんだろうと思う。