金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

過去への疑いを導く限りなく深い罪

オリンピックでぼろが出た障害者への暴力虐待の小山田氏 逮捕歴が山ほどあるのぶみ氏 歴史的な大惨事をネタにして笑いをとろうとした小林氏

彼らの過去の言動を世間が忌避し批難するのはもっともだろう。

 

だがこれ等の事件がきっかけで旧悪をことさらに調べ暴いて人を倒す傾向が世の中にひろまっていくような怖さも同時に感じるのは私だけかな。

 

NLP(神経言語プログラミング)には「イエスセット」というものがある、三回イエスというなら次もイエスだ。

人の心にはそういう惰性がある。

 

三氏の過去が極めてかんばしくないことは事実だ。

やめて当然、辞めさせて当然だ。

だがそれが3人も続いたことで、何かにつけて人の過去への目が光るようになる。

 

誰であれ表に立てば「コイツは何かないか?」「いやきっとなにかある」と嗅ぎまわり暴く世の中はもう始まっている。

脛に傷あれば二度と顔を出せない社会。許しでなくバッシングこそが正義の社会。

でも、それはまったくもって健全な世の中ではないと思う。

その理由は?

なぜなら人は往々にして過ちをする者だからである。

究極、誰も幸福にならない。

まったく過ちのない人などいないからだ。

今、寛容さは急速に失われつつある。

そういう意味では三氏の罪は行った行為を超えてとても大きいものになったと思う。

組織員会のいい加減さもそれに負けす劣らず大きな罪だ。

時間がないからなどと問題点を見ずなし崩しにしようとした罪は極めて深い。

 それ以上にずさんな人選をしたことは最大の罪と言えよう。

 

私は決して三氏をかばうものではない。それどころか、彼らは罪以上の罪、人にまぎれもない疑いの目を植え付ける習慣を植える罪を働いてしまったのだ。

 

 

ただ、ただ残るのはかぎり無く疑いの目で人の過去を見、嗅ぎまわろうとする習慣でないことを祈りたい。