「先生、ブログ拝読しました
感謝の信仰って私のようなものが
口にするのはウソになりますか?
私は感謝してます
今ここにしっかり立ち生きていること
周りの皆さんと笑顔で話せること
愛するワンコと暮らせること
仏様に合掌し、その深い愛を観じ
その空間を師匠の傍らで共有させて頂く
仏様の放つオーラの中にいるような。
厳しさの中の慈悲を観じる
その空間に包まれていたい
一番の心地よい場所
それには品行方正にしていないと
居心地の悪い場所にもなる
信仰は縁を下さる
必要な縁を繋げて道を示して下さる
そう確信するようになってきましたが
違いますでしょうか
有難いです
これは有難いという言葉とは違うの
でしょうか
合掌」
立派ですね。
この方のようになにごとかを実際体験を通してそう思うのは本物でしょうね。
でもそうなるには時間がかかる。体験も必要。
体験豊富なら年齢関係ないともいえるが時間はかかる。
ただ私はあまりそういう人と出会ってこなかった。
何よりも私自身がへそ曲がりで感謝のすくない罰当たりなせいもあると思う。今は感謝していますけどね。
罰当たりだから100も1000も間違ったことは知っている。だから間違いだけはよくわかるつもり、逆に言えばそのへんの目利きができるのでなんとか宗教家やっているようなもんです。道も何百何千と間違えたら、しまいには逆に道案内もできるということと思う。
外には何もしらない。
とりわけ、ご利益信仰というステージでは本当の意味で満足とか感謝いうことがあまり聞かれない。
私が接してきたのがそういう部分、そういう人が多かったのでそう思うのかもね。
もちろん感謝の信仰が嘘だとか絵空事だというのではない。
でも感謝の信仰の話をすると皆例外なくうなずくけど・・・口で言うほど簡単ではないということです。
これが分かるのは本当にすごいことなんだと思っています
仏教のゴールは悟りだが、信仰のゴールは常なる感謝だ。
「本当にありがたい」と思ったらなにはなくともその信仰は完成したも同然だと思います。