一生懸命お祈りするというのにはふたつある。
丁寧に供養を尽くすという祈り。
そうではなく、何度でもしつこく執拗に祈る祈り。
前者と後者はまるで違う。
前者は心楽しく、後者は苦しい祈り。
前者は本尊につながりを深める。
祈りの前に信頼や安心がある。
後者はつながりが切れている祈り。
安心や信頼ではなく焦りや悲壮感さえある。
見捨てられそうだから追いすがる祈り。
だが役には立たぬ祈りだ。
これは専門的な祈祷の話で恐縮だが、成就する祈りは何となく実があり安心感がある。
そうでないものは祈祷してもむなしさを感じるものだ。
それは私ならずともある程度祈りこめば誰でも感じることなのだと思う。
我々は祈ればどうなるか結果をある程度知っているのだ。
むろん祈りと結果は密接である。でなければ祈りなど無駄なことになろう。
結果は多くの因縁に支えらえて出る。運命論ではない。
祈りも大きなその因や縁の一つだ。