うちには家系に私が知らない時代の自殺者がありました。
母方の祖父が自殺しています。
まるで一族の秘密のように口にすることも禁じられた。
それでも母なんかはとても気にしてことあるごとに供養を尽くした。
家でどういうわけか冷遇されていた母の弟。私の叔父も南方領土で戦病死したという。
でも遺骨は何もなく白木の箱のみが来た。
父方の祖母も父を生んですぐに死んだ。
祖父と別れて一人で産んで死んだ。だから実際父は私生児であったわけです。
そんなこんなで気になる霊が家には多かったので自然と供養ということを考える家であった。
だから私が得度したときも母は喜んだ。
一人出家すれば九属天に生じるというからだ。
回忌とかかわりなく盆にも彼岸にも必ず祖父や叔父のために塔婆を立ててくれといわれた。
だが少ししらべたりすれば自殺者が出ている家などは意外と少なくない。
目の前で家族に死なれた人さえある。
でもそれが直に自分の親だったり、兄弟姉妹だったり、子供だったりするともうずっと引きずる。
もう半ば呪いになるように。
どうしても生きていく節目にそっちのことが気になる。
いくら供養しても供養しても届いているのか、浮かばれているのかどうかという不安を引きずりながら生きていく。
同時に得体のしれない罪悪感のようなものを持ちぬぐえない。
うちは小さいながらも事業家で、お金の遣り繰りにも浮き沈みも激しかった。
子供時代には一家離散するしかないかというような話もあった。
だから困窮の際などでは「うちは自殺の因縁があるのだから、自分も行き詰って父のように自殺してしまうのかも」などと言って怖がった。
どんな供養をしてもそうした不安はぬぐえない。
だから・・・そんな人に出会うとき。私は言っている
「その不安な思いはたとえいかなる供養、たとえ千僧供養を尽くしても、大仏を作ってもぬぐえないでしょう。
そういうものです。それは外にあるんじゃない。自分のこころのうちにあるんだから手放さない限り、たとえどんな供養したって無理です。」
昔から有力な貴族や大名は皆そうやってきた。
例えば豊臣家。大阪城の財産を尽くし供養をして結果、滅亡した。
結局、そうした供養を尽くしてもむなしく秀頼も母親の淀殿も大阪城とともに火をかけられ灰と化した。
そんなものだ。
だから罪悪感のために過去に心惹かれるのはほどほどでいい。
どういう死に方をした方がいても釈尊以来過去の諸大師方が千数百年以上提唱して続けられて来た供養法で足らないのなら、どんなに心配しても、どんなことしたって成仏なんか無理なんです。
節目節目に供養したらそれで不幸な過去は忘れる。
それが最も大事な供養だ