よく聞かれるが本尊と仲良しになる以外ない。
あまり仏教的表現ではないが、いうなれば自らの内に本尊の「分霊」を宿していると思うがいい。
それは自らの心月輪上にまします。
私の場合はキャという梵字。十一面観音の種字。
一体というのとは違う。
一体などというと、中には「われは観世音なり」と言い出して周囲を混乱せしめ大きな恥をさらすものも出る。
それは増上慢で頭に血が登っているだけだ。
あくまで心月輪にましまして加持三昧の時は一体となる。
それ以外は其の月輪の種字を穢さぬよう三毒の煩悩を制して生きるという以外はない。
何かあれば判断は其の月輪に聞けばいい。答えてくれる。
応えるわけはないと思えば声は届かない。
そういう人は所詮すべて空想と思っているのだろう。
それも良かろうがそんな考えでご祈祷はできない。