最近お仏像を見ると天女などはとても作りが悪い。
仏像の作行きは手をみるとわかる。手など男の手のようにごつい。
手足は不動明王も弁才天も観世音も区別がない。
顔もそうだ。明王というとただただ怒りの表情が激しかれと思うのみ。
酷いのはペンキを塗ったくった怪獣の粗悪な玩具のようだ。
ガレージキッドの怪獣の方がよくできていてありがたいくらいだ。
祀ることなどどうしてできよう。
ごくまれだがそういうどうしょうもない仏像が引き取ってくれということで来るが発遣してお焚き上げている。
仏像は仏ではない、仏を表現する器だ。
器が粗悪なら破棄するのに何の躊躇もない。
粗悪な仏像の礼拝はむしろ侮辱だ。
貴方の肖像画が超醜く描かれ飾られていたらどう思うだろう。同じことだ。
最近は菩薩と言えば表情のない仮面うつ病の様にしか作れないし、天女といえばアニメの美少女みたいになってしまう。
ただ自分が仏への思いを盛り込めばいいというものではない。
一刀三礼の心で作るべきものがただの煩悩の器にすぎない。
これらは儀軌などまるで見たことが無いからそうなるのだ。まあ。もっとも儀軌など見る気も興味もあるまいが。
何よりも仏像である以上悟りの表情がなくてはならない。
ゆえに仏師は師なのである。悟りは未だ得ずと言えども悟れる人の姿を模して創造するのが仏師だ。
量産品などではそこが全くゼロに近い
例えば弁才天は好醜の容儀を兼ね備えるという。
そうであれば美しくもあり、恐ろしくもある作りにせねばならない。
ゆえに江戸時代のであってもすぐれた作品なのでは笑いながら歯を見せた薄気味悪いもの、眦を釣り上げて眉をひそめるなどの工夫を凝らしている。
任しの仏師はやはり仏道修行をした。例えば写仏と言って尊像をうつすのも写経同様に立派な修行であった。
ゆえに法橋、法眼、法印などのくらいもあった。
僧侶でいうなら法橋は律師 法眼は僧都 法印は僧正の位に比する。