昔から神様の神域に森はつきものだ。
森の浄化力というものは大したものだ。
森にだって動物の死骸や糞など出るだろうがそれをすべて森は栄養に換えて生きている。
だがそのエネルギーに変えられないプラスチックや化石燃料由来の品物を森に捨てることは大きな不浄だ。
たとえトイレがなく森で排せつ行為をしてもそのほうが不浄でない
森は自然物ならエネルギーに変えられる。
だから浄いのだ。
神仏も同じ存在、問題をエネルギーに変えることこそその働きだ。
我々も同じだと思う。
浄くあるということは汚穢に触れないことではない。
それに触れることを恐れることでもない。
清らかとはそういうことだ。
浄化できるということにほかならぬ。
穢れを穢れとして扱えばその穢れはどこまでも無くならない。
穢れは変換してこそ穢れでなくなる。
それを浄という。
熊野信仰では上流から流れてきた水死人に群がるカラスは神の使い。
そこに浄化の働きがあるからだ。