密教では塗香というものを使います。これはお参りに先立ち、身を浄めるものですがインドのような国は随所に水が出ているわけではなく簡便に身を浄めるのは香木で手をぬぐったのでしょう。
清浄ということは大切ですが、その昔一休禅師が村の地蔵尊の開眼を頼まれて小便をかけて「はい、開眼終わり」とやった話は有名です。
村人は激怒したが地蔵尊はそののち霊験をあらわしたという。
インドでは牛の糞は浄いと考えます。牛からインド人になくてはならない乳製品がとれる、だから牛から出たものは浄いという信仰があるのでしょう。
それで糞が地面に落ちる前に皿でとり野外の護摩壇の材料にする。
「一休さんの故事などを考えると浄と不浄がわからなくなります」というひとがいました。
「一休さんは偉いから罰が当たらなかったのですか?」というがそうではないでしょう。
「抑々あなたのいうえらいってどういうこと?」
・・・まあ、浄と不浄ということがわかっいたのだというならそうだと思う。
確かに本来的に考えれば神仏を丁寧に供養すべき仏教でそのようなふざけあことがあっていい筈もないが・・
改めて浄・不浄とは何だろう。
例えば昔は野菜でも米でも作物は肥やしをかけた。
肥しは清いものではない。でもそこから口にする大事な食物が育つ。
間接的に肥やしを食べているともいえよう。
それをまた仏前にも備えています。
そうなると不浄と浄はそんなに別々なものじゃないだろうと思う。
例えば土もそうですね。土は食べられないが土の養分はそういう食べ物を通じて確実に頂いている。
そう考えれば本来浄も不浄もない。土も肥やしも絶対的な毒じゃないでしょう。
人間の不浄と思う肥やしは作物にとっては大切なもの。浄いものです。
要はそれを浄と受け止めるか、不浄と受け取るかは相手次第なのだ。
現代人にはしばしばそこに異常なこだわりがある。
土も触れない人もいる。お気の毒と思う。
修験道では山中で水もなく草で手を洗う作法もある。
とくに宗教的には観念が洗えれば浄であるだろう。
必ずしもモノではないね。
一番の不浄は無関心なこと。
おまつりしていても神仏に無関心で花も枯れはててお供えなど干からびても放ってあることだと思います。