金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

悪魔に喧嘩を売る

本格的に密教修行を始めるといろいろ人生の難問も出てくるものだ。

家族の病気だの、経済問題など自分の廻りに起きてくることが多い。

 

自らにおきることは内魔。そうでないものは外魔という。

ご相談も始めるとそれに見合う難問が出てくる。

祈祷も同じだ。

だがそれらはいってみれば内魔も外魔も皆クリアすべき課題だ。

 

形の上ではどうにもならない問題、形としてでなく心でクリアする問題もある。

これをひっくるめて魔事とか障碍とかいうが、・・・ここで退転してももう遅い、

いわば悪魔に喧嘩を売ってしまったのだ。

これは顕教、例えば止観三昧でも似たような事は起きてくるだろう。

 

この説明に仏典では自在天魔というものがいることになっている。

外に起きてくる障害はこの自在天魔によるとされる。

 

彼は欲界の衆生、ザックリ言えばすべての人間は全て我が臣下であり、自分のものだと思っているので、仏道修行を志しそこから解脱していこうとするものを許さないという。

いろいろ難儀を振りかかるのも彼の所為という。

「お前はしなくてもいい修行などするからそうなるのだ!」と悪魔はそういうのだろう。

 

実際に修行を始めると思わぬ「妨げ」や番狂わせに逢って右往左往することも多い。

我々人間の計画など嵐の前の木の葉のようなものだ。

だからのっけから入門希望者に「何年位修行すればそれはおわりますか?経済的にいくらくらいかかるのでしょうか?」と言われると「え?」と思わず違和感を感じる。

それらが予算表のようにでないと困るという人ははじめから辞めた方がいい。

 

たとえ火の出るような精進努力の結果、少ない年数で所定の修行が済んでも当初の計画通りにまずいかないのが普通だ。

大きく環境や事情が変わってしまうからだ。

それに降伏して「修行を辞めますのでご勘弁ください」と白旗をあげてももう遅い。

 

実際は天魔云々というより内魔も外魔も所詮自分のカルマとの戦いと考えてもいいだろう。

私は天魔なんかはいないと決して思わないが、天魔もカルマの内だというまさにそうだ。

昨日自分の限界領域を超えてしまうと反動が起きるという話を聞いた。

密教修行も修行だろう。

 

だから猫も杓子も密教修行などやるものではないのだと思う。

少なくとも世俗的価値観でもっと幸せになれるからと密教修行したいというのは大きな間違いだ。

 

そういうことはない。

 

だが、いったん始めたらやめてはダメだ。

面白いのは悪魔も投げ返せないボールは投げてこない。

その意味では悪魔も我々を鍛えてくれる菩薩かもしれない。