なにかの宗教を信じることは人を信じること。
直には師匠や先輩だが、そこに尊敬すべき何ものもないならそれは信じるに足りない。
逆に素晴らしいと思うならその前のにも素晴らしい人たちがいるはずなのだ。
素晴らしい人たちがいるその流れはおそらく素晴らしいのだ。
だから私はそうした先人に培われてきた日本の仏教の流れを信じている。
他に信じる根拠とてない。
無論理屈は理屈としてあるがそれはどうとでもいえる。
信じるに至った方との出会いこそを千や万の理屈や説明より大事にしている。
千年以上にも及ぶ時の流れを信じているからにほかならない。
他に信じるものは人に語れるような確たるものは何もない。
釈尊はそうした流れの大本だが実際は何も直には知らないのだ。
当たり前だね。何千年も前の方だ。
どんな方だったか本当にはなにひとつ知らないといっていい。
いずれにしても釈尊も人である以上どんなに素晴らしくともなんらかの短所もあったことだろう。
人は完ぺきではないがどんな教もその不完全な人間こそが運び手で全能の神ではない。
だが、いま仮に「本当の釈尊の教とはこうなんです!今の考えとは全然違うんです!」という人が現れたらどうだろうか?
私はそこにひかれることはないだろう。
現に釈迦の生まれ変わりだとかいう人は方々にいるけどね。
それは耳に聞こえる言葉より肌で感じるものを選ぶからだ。
どんなに明解で理屈の上で正しく聞こえるとも惹かれることはない。
私が大事にしたいのは千年以上にも及ぶ時の流れ。
そこは全くぶれることはない。